香り
神尾を家に上げると、あいつは決まってこう言う。

「この部屋って、跡部の匂いがするな」

俺にはよく理解できないが、その人物の持つ雰囲気のようなものを感じるらしい。
神尾がこの事を言うたびに、俺は首をかしげたいた。
そう、昨日までは。



本に集中していた時の事だ。
窓の外からパラパラという、雨が降る音が聞こえてきた。
朝から曇っていたから、降るだろうという予想はしていたが、見事的中したようだ。
俺はテーブルの上にある時計に視線を移した。
今日は神尾がうちに来る約束を交わしていた。
その時刻まであと10分。
きっとアイツの事だから、傘なんて持ち歩いていないだろうと思い、俺は綺麗にたたまれたスポーツタオルを持って、階段を下りた。

リビングの中央にあるテーブルにタオルをおくと、その足でキッチンに向う。
冬ほど寒くはないが、ここ数日でだいぶ秋らしい気候になった。
この時期、濡れたままいる事は決して賢い選択ではない。
濡れた服は着替えさせればいいだろうが、それとは別に体の中から温めた方が効率がいい。だから俺は何か温かい飲み物を用意してやろうと思ったのだ。
問題は何を作るかだな。
基本的に甘い物を好む神尾は、その時によって色々な注文を出してくる。
甘いミルクティーやホットミルク、ココア、ロイヤルミルクティー、カフェオレ。
実際に神尾の希望を聞いてから作った方が効率がいいのだが、濡れて来るのであれば、先に作っていた方がいいだろう。
そう思いつつ、紅茶の缶やコーヒー豆が並ぶ棚を見ていた時だった。
神尾が到着したらしく、チャイムが鳴った。
時計を横目に、予想より少し早いなと思いつつ、玄関へと向う。
ドアを開ければ、案の定、髪と服をしっとりと濡らした神尾が立っていた。

「走ってきたんだけどよ、やっぱり降られた」

服の表面に付いた水滴を払いながら、神尾が悔しそうに言う。
そんな神尾にスポーツタオルを渡してやり、リビングに通す。
自分の部屋から代わりのシャツを持ってきて渡せば、「サンキュー」と言って、ベージュのパーカーを脱ぎ、シャツを羽織る。
袖が少し長かったからか、肘の辺りまで丁寧に腕まくりをしている。

「何か温かい飲み物を作るが、何がいい」
「マジで?じゃあ、甘いロイヤルミルクティーな」

髪の毛をゴシゴシと拭く神尾の脇を通過し、キッチンへと向う。
その時、何か甘い香りがした。
それは女が発する香りに似ていて、なんとなく嫌な気分になった。

神尾ご要望のロイヤルミルクティーを作り、お茶請けであるクッキーを持ってリビングへ戻ると、神尾の奴はまるで自分の部屋にいるかのように、ソファーの上で寛いでいた。

「てめぇは、何様のつもりだ?」

そう言って神尾の前に紅茶の入ったカップを置けば、にやりと笑って

「俺様?」

と、バカな事をぬかした。
カップをテーブルの上に置き、神尾の脇に腰を下ろす。
神尾はティーカップを両手で包み込むように持つと、ゆっくりと飲み始めた。
タオルドライであらかた乾いたのか、神尾の髪はいつものようにさらりとしていた。
ふと、その髪に触れたくなり、手を伸ばしてみた。
少し冷たさはあるものの、予想したとおり神尾の髪は、さらりと俺の手を零れ落ちていく。
だがその瞬間、再び先ほどと同じ甘い香りが鼻先を掠めた。
思わず、眉間に皺がよる。
神尾はマイペースに飲み物を口にしていたが、俺は構わずに、神尾の髪に顔を近づけた。甘い香りは明らかに神尾の髪からしていて、それは女物の香水に似た香りだった。
俺の知る限り、神尾に香水をつける趣味はない。
当然、男物も女物もだ。
しかし、神尾の髪からはやわらかく甘い香りがする。
神尾が自分でつけないという事は、誰かが故意につけるしかない。

「おい、神尾。お前、ここに来る前に何してた?」

大人気ないと思いつつも、そう問えば、神尾は目を丸くして首をかしげた。

「何って、深司達とカラオケだって、説明しただろ?」

確かに、今日会う約束を取り付けた日、3時までは伊武達とカラオケに行くから無理だと言われた。しかし、あいつらが神尾に女物の香水を吹きかけるのは考えにくい。

「なら、なんで女物の香水をつけてるんだ?すれ違っただけじゃ、ここまで香りは残らないだろうが」
「女物の香水?」

神尾は何を言われているのかさっぱりだという顔で、俺の事を見返す。
確かにこいつは嘘をつけるようなやつじゃないが、事実、女物の香りがするのだ。
これをどう説明しろと言うのだろうか。

「お前から女物の香水の香りがするんだよ。何してたか、正直に言ってみろ」
「だから、さっきから言ってるだろ。深司達とカラオケで…」

明らかに不自然なところで言葉が切れた。
ふと、何か心当たりがあったのか、神尾は少しの間、動きを止めた。
そうかと思ったら、急にげらげらと笑い始めた。
俺は一体何があったのか分からず、ただ唖然とそれを見ていた。

「てめぇ、ついに頭の螺子が吹っ飛んだのか?」
「いや、跡部が凄いバカな事を言うからよ」
「あぁ?誰かバカだって」

凄みをきかせて睨みつければ、神尾はやっと笑うのを止めて、真っ直ぐ俺の事を見た。

「さっき、カラオケに行ったって言っただろ?」
「あぁ、言ったな」
「俺らが使った部屋、その前に使った奴らが凄い喫煙家だったみたいで、部屋中ヤニ臭かったんだよ」
「煙草?」

確か神尾の奴は、煙草が嫌いなはずだ。家族の中で誰も喫煙者がいないらしく、煙草の臭いに敏感なのだといつだか聞いた気がする。

「それで俺達の服や髪にも臭いが移ってさ、俺、凄く気にしてたんだよ」
「で、それが何の関係があるんだ?」
「そうしたら、杏ちゃんがヘアコロンを貸してくれてよ」
「ヘアコロン?」

俺の言葉に、神尾が頷き返す。

「そう、ヘアコロン。杏ちゃんのだから、女物だろ?フローラルでちょっと甘いけど、煙草の臭いよりはマシだから、ちょっと使ったんだよ」
「それが、この香りだっていうのか?」
「そう」

つまり、神尾の髪から女物の香水のような香りがしていたのは、煙草の臭いを消すために使ったヘアコロン(女物)の所為で、別にやましい事をしていたわけじゃないって事か。
予想外の結論に、俺は自分があまりにも滑稽な道化になってみたいだった。

「で、跡部はどんな答えを予想してたんだよ」

人が一番聞かれたくない言葉を、さも当然という顔で神尾は聞いてきた。
にやにやとコチラの反応を楽しむように笑う、神尾の顔がこれほど憎く感じた事は今まで一度もないはずだ。

「とにかくだ、もう2度と女物はつけるなよ」
「話そらすなよ。っうか、今回のは不可抗力だろ?仕方ないじゃんかよ」

一体、何が悪いんだよと首を傾げる神尾に、俺は小さくため息をついた。

「俺はお前を女として見てるわけじゃねぇって言ってんだよ」

世間一般的に言って、同性同士が付き合うというのは不思議なものなのだろう。
これが同性しか居ない場所で、流れでそうなってしまった場合もあるかもしれない。
しかし俺は神尾の事を、今まで一度も女の代わりとして扱った事などない。
"神尾アキラ"という、一人の人間に惚れたのだ。
だからこそ、神尾から女のような甘い香りがした時、これほど不愉快な気分になったのだろう。

「いいな、もう二度とつけるなよ。俺は素のままのお前が好きなんだからな」

もう一度念押しをするように言えば、神尾はどこか照れ臭そうに頷いた。
この時、いつも神尾が言う

「この部屋って、跡部の匂いがするな」

という言葉の意味が理解できるような気がした。



END





モドル