寒い心
寒くて、冷たくて、寂しかった。
そしてとても悲しかった。

俺にはとても大切な人がいた。
とても優しくて、温かい人だった。

俺は"ばあちゃん"って呼んでいた。
あの人がそれで良いと言っていたから。

決して小さくは無い家に一人で暮らしていた。
近所に息子夫婦が住んでいたが、よく顔を出したのは孫だという女性だけだった。

ある日、大切な人が動かなくなった。
俺が一生懸命声を掛けても、どんなに揺すっても、起きる事はなかった。
それが意味する事はただ一つで、その事が信じられずに俺は何度も声を掛けたけど、あの人は俺の声に反応してくれなかった。
頬を伝うのは、塩辛くてぬるい雨。
俺はそれを何度も拭った。

その後の事は、断片的にしか覚えていない。
孫だという女性に電話して、誰かが来て、ばあちゃんの周りを囲っていた。
俺はいつもより低い視点でそれを見ていた。
俺に気付いた孫だという女性が近づいてきて、俺を優しく抱き上げてくれた。

「おばあさんはもう帰って来ないの。だから君は自分の好きな所に行きなさい」

目を真っ赤に腫らした彼女が、掠れた声で俺に言った。

「私には、君の面倒を見る事は出来ないから…。ごめんね」

いつだったか聞いたことがある。
彼女の住んでいる家は、動物を買ってはいけない所なのだと。
だから俺は一緒に暮らせないのだという事を理解する事は出来た。
ただでさえ、この変な体質を持っているのだから、当然だったのかもしれない。
それでも彼女はばあちゃんの次に俺を可愛がってくれた。
その日、俺はばあちゃんに別れも言えず、家を後にした。



行く当ても無くて、体力を使う事は分かっていたけど、俺は"人間"の姿で街中を歩いていた。ばあちゃんが買ってくれた服を身に付け、一人ぼっちで歩いた。
いつのまにか雨が降り出し、身に付けていた服は水分を吸って次第に重くなり始めていた。俺は自分の居場所を見つける事も出来ず、ただぼーっと歩いていた時、誰かにぶつかった。下を見て歩いていたのだから、人にぶつかるのも当然で、俺は次に飛んでくるであろう罵倒をじっと待っていた。
でも実際は、自分より少し大きな手と優しい言葉が降ってきた。

「悪い。大丈夫か?」

差し出された手の意味を理解できず、ただ見返すだけの俺にそいつは少し乱暴だけど手を掴んで立ち上がらせてくれた。
今思えば、あれが外の人間との始めての接触だった気がする。
今まで一緒にいたのはばあちゃんか、あの女性だけだったし、普段はこうやって手を差し伸べる人間なんていないからだ。
そいつの手は俺よりも大きくて温かくて、なぜかほっとした。
それでも俺の口から出てくる言葉は謝罪の言葉だけで、相手も俺の言葉を聞いたらバツが悪そうに言葉を返してきた。
気まずいと同時に、不思議な気分だった。
自分がばあちゃんとあの女性以外の人と、会話をしている事が。
早くこの場から離れた方がいいのに、それでも俺の足は動こうとしなかった。

そして話の流れで、そいつの家に厄介になる事になった。
確かに雨で水分を含んだ服は気持ち悪かったし、ばあちゃんに貰った服が汚れたままは嫌だった。
だからかもしれない。普通であれば断るところを、すんなりと受けれいたのは。

そいつの家に向う前に、俺は名前を聞かれ"神尾アキラ"と名乗った。
アキラが俺の名前で、神尾は俺を買ってくれていたばあちゃんの苗字だ。
そこまでは言わなかったものの、自分の名前を名乗れば、そいつも自分の名を名乗った。
跡部景吾、それがそいつの名前だった。



跡部の家に上げられて、風呂に入るように言われた。
正直言って、俺は風呂が嫌いだ。
頭上から降り注ぐ大量のお湯を浴びるのは、とても怖い事だからだ。
だから当然の如く断った。
そうしたら跡部は怒って、逃げよと思ったら捕まった。
で、あっさりと俺の正体はバレた。バレたといっても、俺自身よくわかっていない所もあるから、跡部もかなり困惑していたと思う。

それでもあいつは俺の事を否定せず、詳しい事情も聞かずに俺の事を受け入れてくれた。それはかなり凄い事だと思う。何が凄いって、素直に受けれいれてくれた事とか、俺が跡部と出会った確立とか全てがだ。

それでもあの日。
俺は自分に差し出された手にすがり付いてしまった。
優しくて温かい心から、抜け出せなくなっていたのだ。





「どうかしたのか?」

まどろむ意識の中、自分に向けられた声に俺の意識は一気に覚醒した。
目の前にいるのは、あの時俺を救ってくれた跡部。
それでここは跡部が俺に貸してくれた部屋。

あの日以来、俺はふかふかのベッドと温かい居場所を貰った。
猫の姿でなくても、十分すぎるほどのスペースを持つ跡部の家。
跡部は跡部で、何か特別な事情を抱えているらしいけど、俺には話してくれない。
でも今はそれでいいと思う。
俺も、まだ跡部にばあちゃんとの事を全て話したわけではないから。

それでも俺は、ばあちゃんと別れた日のような寂しい気持ちには襲われなくなっていた。とても不思議だと思ったが、今はただ、この温かい場所にいられるだけで満足だと思う。

「なぁ、跡部」

ぐいっと跡部の手を引っ張ると、ベッドの脇に立っていた跡部がぽすっと腰を下ろした。
その振動で少しだけベッドが揺れ、それが面白いと思った。

「あぁ?どうした」
「俺、今幸せだからな」

失ったものが返ってくる事はないけど、また新しい大切なものを手に入れられる事を知った。それを与えてくれたのは目の前の跡部で、俺はそれが嬉しい。
それは冬に降る雪が、春に溶けて水に帰る様に似ていて、俺の寒かった心にも温もりが到来した事だった。

跡部は一瞬唖然としていたが、次の瞬間には優しい笑みを作っていた。

「これでてめぇが幸せじゃなかったら、俺は凹むからな」

そう言ってぐしゃぐしゃと俺の髪を撫でた。

温かい場所。
そしてとても大切な場所。
きっともう、俺は寒さで凍える事はないだろう。



END





モドル