鈴の音色
その日はしとしとと、静かな雨が降っていた。
梅雨なのだから当然と言えば当然なのだが、俺はこんな天気にも関わらず外に出掛けたい衝動にかられた。
特に出かける理由も無いのに、わざわざ濡れに出かけるなどバカらしいとも思ったが、なんとなく出かけないといけない気がしたのだ。

俺はモスグリーンのジャケットを羽織り、携帯電話と財布を持つと玄関に向う。
レイニーブルーの傘を手にし、アパートのドアをくぐると雨の匂いが鼻をついた。
キチンと鍵を掛けた事を確認し、俺はどこに向うでもなく歩き出した。





チリン

川に沿った堤防を歩いていた時、夏によく聞く風鈴のような涼しげな音が聞こえた。
それはこんな雨が降る中では珍しい事で、どこから聞こえてきたのだろうかと周囲を見渡す為に歩みを止めると、次の瞬間、何かが自分に体当たりしてきた。
そしてその直ぐ後にバシャンと言う派手な音がした。
下を見れば、黒いパーカーを頭から被った少年が地べたに座り込んでいた。
察するに、俺に当たって尻餅をついたというところだろう。
少々不注意だったと自分の行為に反省しつつ、俺は目の前の少年に声をかけた。

「悪い。大丈夫か?」

そう言って差し出した手を、少年は驚いたような目で俺の事を見返してきた。
黒い瞳が俺の姿を映し出したが、その瞳は不安そうに揺らいでいる。
そして少年はどうすればいいのか分からないといったように、そのまま地面に座ったまま動こうとしない。
俺は仕方なく、差し出したその手でそいつの手を掴むと、ぐいっとひっぱった。
一瞬驚いた顔をしたが、俺が自分を立たせる為に腕を引っ張った事を理解したらしく、足に力を入れて立ち上がった。

「その…ごめん」
「いや、こっちもよそ見していて悪かったな」

お互いに自分の非を詫びると、再び気まずい雰囲気が流れた。
目の前で立ち尽くしている少年の姿を見ていて、そのままの格好では気持ち悪いだろうなと思った。
俺にぶつかって尻餅をついた際、ズボンは勿論の事、上着であるパーカーにまで泥水がはねている。白い服じゃないのが不幸中の幸いだが、それでもそのまま放置していたら、しみになってしまうだろう。

「お前、これからどこか行くところだったのか?」
「えっ?」

質問の意図が理解出来ないらしく、首を傾げて聞き返してきた。
少し聞き方が悪かったと思い、もう一度口を開いた。

「どこかに行くのなら、その格好じゃまずいだろ?」
「あぁ。別に、行くところはない」
「そうか」

人と待ち合わせをしていないのであれば、そのまま家に帰れば着替えるな。
だがそれでも距離があれば電車やバスに乗るだろうし。

「家は近いのか?」

優しくそう聞いてやると、ふるふると首を横に振った。
なんとなく予想通りの答えに、俺は頭の中で考えていた事を口にした。

「そうか。なら、俺のうちに来るか?そこで代わりの服を貸してやるから」

俺の言葉に、少年はぽかんとした顔で俺の事を見つめ返してきた。
言葉の意味が理解できなかったのかと思い、再び口を開こうとした時、やっと少年が口を開いた。

「いいのか?」
「あぁ。ぼーっとしていた俺にも非があるからな」

そう言えば、少年は嬉しそうに"ありがとう"と礼を言った。
俺は少年を俺のさしていた傘に入れようと名前を呼ぼうとしたが、まだ名前を聞いていない事に気が付いた。
仮にも自分の家に上げようというのに、これではあまりにも間が抜けている。

「お前、名前は?」
「アキラ…。神尾アキラ」
「神尾アキラか。俺は跡部景吾だ」

"あとべ…けいご"と何度か口にして、神尾は"よろしくな跡部"と手を差し伸べてきた。
さきほどまでの消え入るような声が消え、俺はどこかほっとした気持ちで、神尾と共に自宅に向った。



「お邪魔します」

少し水分を吸った靴を脱いで上がると、神尾はきょろきょろと物珍しそうに室内を眺めた。
まるで人の家に上がるのが初めてのようで、どこか子供じみた行動だ。
そんな神尾をリビングに通し、俺はポケットに入れておいた携帯電話と財布をテーブルの上に置くと、神尾に視線を移した。

「取り合えず、風呂使っていいからな。その間に、何か別の服を出しておくから」

今だパーカーのフードを被ったままの神尾にそう声をかける。
少し俺より小さいものの、男と女のように体型が違うわけではないのだから、Tシャツとハーフパンツでも貸して、汚れた神尾の服は洗濯して乾燥機にかければいいだろうと思っていると、神尾は俺が全く予想もしていなかった反応を示した。

「嫌だ!」

今まで大人しかったのが嘘のように、神尾ははっきりと言った。
一瞬、俺の聞き間違いかと思ったが、そんな事はあるまいと思い、呆れつつ言葉を返す。

「あのなぁ、そのままじゃ風邪ひくぞ」
「い・や・だ!!」

まるで子供のようだと思いつつ、俺は神尾から視線をそらさずに言う。

「てめぇ、良い根性だな」

だが嫌だと言われ、はい、そうですかと引き下がれるほど、俺は優しい奴じゃないし、諦めも良くない。というより、人が折角親切に風呂を勧めていると言うのに、断るこいつの方が可笑しいとしか言いようがない。

「タオル。タオルで拭くから」
「それじゃあ意味がないだろう」

そう言って、無理やりにでもバスルームに連れて行こうと手を伸ばせば、神尾はそれを避けるように一歩下がった。
思わず舌打ちをし、神尾との間合いを詰める。

「嫌だ。絶対、入らない」
「お前な、どこのガキだよ。風呂が嫌って」

俺に背を向けて逃げ出そうとした神尾のパーカーを掴むと、今までずっと被ったままだったフードが落ちた。
黒いフードの中からは、艶やかな茶色の髪の毛が現れた。
綺麗だと思ったのも一瞬、俺はある異変に気づいた。

「お前、その耳…」

本来であれば、肌の色と同じ耳があるべきところに、艶やかな毛並みの耳があった。
それは犬や猫の類と同じもので、明らかに人間のものとは違っていた。

「あっ…」

神尾は明らかにしまったという顔をして、両手で耳を押さえた。
俺はというと、その耳がなんなのか理解するので精一杯だった。
さすがに趣味って訳じゃなだろうし、かと言って人間の突然変異とも考えにくい。

「それ…本物か」

口からついて出た言葉は、自分でも間抜けだと思うような物で、俺は自分自身に呆れた。
しかし神尾は静かに頷き、やっと俺に視線を合わせた。

「おかしいよな、こんなの…」

先ほどまでとはまた違う、怯えを含む震えた声に、胸の辺りがちくりと痛んだ。
自分が悪い事をしてしまったように感じられた。
人は(と言って良いかはわからないが)誰しも、他人に触れられたくない事がある。
家庭の事情だったり、自分自身の事だったり、それは人によって様々だ。
だが神尾にとって、これはそれにあたるのだろうという事だけはわかった。

そう言えば、行く場所が無いと言っていたよな。
あの時は、目的地がないと思っていたが、もしかしたら帰る場所も無いのではないかという疑問にいきあたった。そうでなければ、わざわざこんな雨の日に、傘もささずに外を歩くような事はしないであろう。

「お前、帰る場所はあるのか?」
「えっ?」

はっとしたように顔を上げ、俺の事を見返した神尾の顔はどこか苦しそうで、俺は無意識のうちに神尾の頭に手を伸ばしていた。
小さな子供をなだめるように、ぽんぽんと頭を叩くと、今から自分が言おうとしている事を言って良いのかと、自分自身の問い直す。
そこで出てくるのはやはり同じ答えで、俺は素直に自分の思った言葉を口にした。

「もし行くところがないのなら、ここにいろ」

俺の言葉に神尾の目は、大きく見開かされそのまま目が落ちるのではないかと、余計な心配をした。

「いい…のか?だって俺…」

ぐっと脇に下ろしてあった手を握り、神尾の肩がかすかに震えた。
俺はぐしゃぐしゃと神尾の頭を撫で、再び視線を合わせた。

「部屋が余ってるからな。お前が良ければ、好きに使って良い」

そう言えば、神尾は少し戸惑った表情を見せたものの、嬉しそうに頷いた。
チリンチリンと軽やかな音が響き、神尾がつけていた鈴だという事が分かった。
先ほど聞いた寂しい音色ではなく、どこか優しい音色に俺は自然と顔の筋肉が緩むのを感じた。

実際の所、神尾が猫なのか人間なのか俺にはよくわからない。
それでもこの神尾アキラという少年が、俺のつまらない毎日を変えてくれる気がしたのは確かだ。
まだ謎も多いし、完全に信頼関係が成り立っているわけではない。
それでもこいつから、自分の事を話してくれる日まで、俺はゆっくり待とうと思う。
どうせ、時間だけはいくらでもあるのだからな。

こうして俺と神尾の不思議な共同生活が始まった。



END





モドル