チョコレートの苦い罠
今、俺のカバンの中に入っている物。
俺愛用のテニスラケット、教科書とノート、筆記用具。それから携帯電話に、誕生日に買ってもらったMDプレーヤーとヘッドホン、お気に入りの曲が入ったMDディスク。
いつもならここに板チョコがあるのだが、今日に限ってそれは無い。
なぜなら、同じ部活の内村に取られてしまったからだ。
もともと少なかったのに、見事に全部食われた。
育ち盛りで、朝も夜もハードなスケジュール(勿論、部活のテニスでだ)をこなしている中学生男児が、朝昼晩の3食で足りるはずも無く、俺の胃袋は今にも泣き声を上げそうなほどペコペコだった。

「なぁ、跡部。腹減った」

そう言えば、跡部は"またか?"と言いたそうな顔で、俺の事を見た。

「てめぇは、にわとりか?3歩歩いたごとに言ってんじゃねぇよ」
「3歩ごとになんて言ってねぇだろ!?」

大体、にわとりって何だよ。俺はそんなに物忘れが激しいわけじゃない!
そう主張するように睨み付けると、跡部は俺の事を鼻で笑った。

「似たようなもんだろ。どっちにしろ」

そう言って跡部は俺の事を小突いて、歩くように促した。
俺はそんな跡部の態度に文句をつけてやりたい気分だったが、そんな事に体力を浪費したくなくて、無言のまま歩みを進めた。


部活帰り、跡部と一緒に帰るのはかなり久しぶりだった。
橘さんが引退し、俺達も俺達に出来る精一杯の練習をしている。一方、跡部の部長の引継ぎや高等部進学への試験などで、お礼状に忙しい日々を送っている。
そんな中で、こうやって2人で一緒に帰れる事は楽しい時間だったはずなんだが、跡部が俺の事を鳥頭扱いするから、俺も意地になってこれ以上"腹減った"って言わないように、口を閉じたままだ。
跡部はそんな俺の態度をわかっているくせに、何も言わずに歩いている。



「そう言えばお前、チョコ好きだったよな」

唐突に、跡部がそんな言葉を口にした。
基本的に俺は甘いものが好きだ。
あまりにもごてごてした甘さは嫌いだが、大概のお菓子は問題ない。
だからこそ、いつも鞄の中にチョコレートを忍ばせているのだ。
普段なら簡単に食いつく会話だったが、今日だけはさっきの事もあり、そっけない言葉で返した。

「まぁーな。突然なんだよ」

俺が腹減ってるの知ってて言ってんのか?確かにこいつの意地の悪さは理解していたが、何もこんな時にそれを発揮しなくてもいいじゃないか。
そう思いつつ跡部をちょっと睨みつけるように見たが、跡部はそんな事を気にする風も無く、鞄のなかに手を伸ばした。

「そうか。じゃあ、心優しい俺様がお前にいいものをやろう」
「誰が心優しいだよ…」

跡部に聞こえるようにわざと言ったにも関わらず、跡部は面白い事でもあるかのように笑っている。

「いらねぇのか?」

俺の前でひらひらと見せ付けるように差し出された物。
それは黒と白のモノトーンで包装された長方形の物体だった。

「なんだよ、これ」
「ガキのお前が好きな、チョコレートだ」
「ガキってのは余計だ!」

思わず跡部の言葉に食らいついてしまったが、跡部の最後の方の言葉が俺の中で引っかかった。

「えっ?チョコレート」

少し間の抜けた声で聞き返したら、跡部は今頃気付いたのか?って顔をしながら、"あぁ"と頷いた。そして俺は跡部の手からそれを受け取った。
確かに表にはチョコレートの写真が載っている。そして裏を見れば、英語で何かかかれている。その少し下には白のラベルに黒いインクで日本語で書かれた文字。
どうやら輸入品のようだ。

「これ、食べて良いのか?」
「あぁ。やるって言っただろう?」
「そっか。サンキュー」

包み紙をあけると、銀色の包みで包装されたと厚紙が入っていた。多分この厚紙は、チョコレートを包装するさいに便利な様に入っているのだろう。銀色の包みを破り、パキっという音を立ててチョコを折ると、俺は嬉々として一欠けらを口に含んだ。

モグモグ…モグモグ……!?

「にがっ。なんだよ、これ」

口の中に広がったのは、砂糖を入れ忘れたココアのような味だった。
甘くて口の中でとろけるような味を待っていた俺の口は、思わず悲鳴を上げた。
そんな俺の表情を楽しむように、跡部は無言のままにやにやとした顔で俺の事を見た。

「お前、ここになんて書かれてるか分かるか?」

そう言って跡部が指差したのは、包み紙に書かれているの数字の所だった。

「えっと、85%ココア?」
「まぁ普通だとココアだが、これはカカオって読むんだ」

"cocoa"って書いてカカオとも読むのか。へぇー、初めて知ったぜ。

「で、これが何なんだよ」
「このチョコレートに使われているカカオの量だ」
「カカオの量?」

カカオってチョコレートの原料だったよな、確か。

「あぁ。つまりこのチョコレートはカカオマス85%のビターチョコレートって事なんだよ」
「へぇー」

跡部の説明によると、チョコレートと言うのはカカオマスとココアバター、乳製品、砂糖で出来ているらしい。それでこのチョコレートは普通のブラックチョコレートよりも2.5倍ほど多いカカオマスを使っているらしい。
だから砂糖が入っていないココアみたいな味がしたのか。
そう思っていると、跡部がこのチョコの説明も付け加えた。これはスイスのとあるメーカーのチョコで、深みのあるこくとまろやかな甘さに仕上げてあるのだと。
だが俺は、そんな風には感じなかったけどな。
そう思っていたのが顔に出たのか、跡部は俺を小ばかにしたように笑った。

「まっ、お子様味覚のお前には、この味はわからないだろうがな」
「なんだよ、それ。俺はガキじゃない!」

確かにこのチョコレートはちょっと苦かったかもしれないけど、俺は決してお子様味覚じゃない。好物はほうれん草のおひたしなんだぞ!

「けど、これが苦くて食えなかったんだろ?」
「そっ、そりゃそうだけどよぅ」

確かにこのチョコレートが苦いと思ったのは事実だ。
だけどだからって俺がお子様味覚な訳ではない。断じて違う。
そう言ってやりたかったが、跡部に口で叶わない事はわかっていたから、俺はあえてその言葉を飲み込んだ。
一方、跡部は俺の手にしているチョコを折って、一欠けらを口の中に放り込んだ。

「ならてめぇが、このチョコレートを食べても美味しいと言える様になったら認めてやるよ」
「本当か?じゃあこのチョコレートが食べられるようになったら、もう俺の事をガキ扱いするなよ」
「あぁ、いいぜ」
「やぶんなよ」

そうビシって言うと、跡部はいつもの自信ありげな表情で頷いた。

「で、このチョコレートっていくらするんだよ」

輸入品って事は、ちょっと高いって事だよな?
そもそも、これってそのあたりのコンビニとかで売ってるのか?
値段を聞いたら、それも聞いてみようと思っていると、跡部は俺の予想もしていなかった金額を口にした。

「これか?確か400円ぐらいだったかな」

さらりという跡部の声に、俺は手にしていたチョコレートを落としそうになった。(勿論、勿体無くてそんな事はしなかったが)

「はぁ!?400円?板チョコがかよ。ありえねぇ!」

板チョコの1枚の相場って100円前後だろ?普通さ。それが400円ってなんだよ。
絶対、ありえねぇ。高すぎだって。

「庶民のお前には高くて手が出ないか?」
「ばっ、バカにするなよ!俺だってそれくらい、月に1,2枚ぐらいは…」

さすがにいつも買う板チョコみたいに、ぽんぽんとは買えないかもしれないが、それぐらいならどうにかなる…はずだ。

「月に1,2枚かよ。っうか、お前は一体月に何枚板チョコを消化してるんだよ」
「うっ…。そんなの今は関係ないだろぅ」

別に跡部に迷惑を掛けてるんじゃないんだから、そんな事はいいじゃかいか。
っうか跡部は、いつもそうやって俺の事からかって、なんなんだよ。
深司じゃないけど、心の中でブツブツと文句を言っていたら、跡部がぼそっと呟いた。

「仕方ねぇから、俺がやるよ」
「えっ?」

今、跡部はなんて言った?"俺がやる"って言ったよな。何を?

「もしかして、今日みたいにこのチョコをくれるって事か?」
「あぁ。だから他ではチョコ食うんじゃねぇぞ」

そう言って跡部は俺の事を見つめた。

「OK。じゃあ跡部もチョコ、切らすなよ」

そう言うと跡部は少し呆れた風に笑った。


こうしてこの日から、跡部の鞄の中には俺専用のチョコレートが入ることになった。
カカオの香りがよくて苦い、大人のチョコレートが。



END





モドル