人魚の湖
「人魚のでる湖?なんだ、そりゃ」

行きつけのバーで飲んでいた時だ。
女友達の1人が口にした言葉に俺は耳を疑った。

「なんだミゲル、知らないの?この町じゃ、かなり有名な話よ」
「満月の夜、町外れの森にある湖に人魚が現れるの。その人魚は綺麗な歌声を発しつつ、湖の上を歩くんですって」

"素敵だよね"と言う彼女達に、俺は何とも言えずグラスに残っていたカクテルを飲み干した。氷だけが残ったグラスをテーブルに置くと、彼女達に視線を移す。

「どうして女っていうのは、そういうありもしない噂が好きなのかね」
「だから、噂じゃないの。実際に見た人がいるんだから」
「しかもかなりの美人らしいわよ」

何の根拠があるのか、彼女達はやたら具体的にその人魚の話をする。
綺麗な歌声とか、美人だとか。
いや、その前に突っ込むべき部分があるな。

「ちょっと待て。人魚が歩けるのか?」

大体人魚って言うのは、上半身人間で下半身は魚だろ?
ひれしかないのに、歩くと言う表現はおかしいにもほどがある。
半漁人ならまだしもわかるが、美人の半漁人など聞いた事がない。
大体、半漁人は醜いものと相場が決まっている。

「でも皆がそう言うんだから仕方ないでしょ」
「そうよ、ミゲル」

仕方がないとかそういう問題だろうか。
俺のツッコミをあっさりと切り捨てる彼女達に、俺はもう何も言うまいと席を立った。



外に出ると、夜道をきらきらと月の光が照らしていた。
薄い雲が少しあるが、月にかからない限り大丈夫であろう。
月明かりの下、俺は自宅へと続く道を歩き始めた。

「美人な人魚ねぇ…」

さきほど交わされた言葉を思い出しつつ、俺はその人魚の事を想像していた。
きっと髪はキラキラと輝くように美しいプラチナブロンド。目はマリンブルーのように澄んだ瞳。頬は桜貝のようにほんのりと染めていて、笑顔が似合う女性。
そしてナイスバディーなお姉さまだよな。うん、絶対そうだよな。

彼女達の話を否定したが、美人と誉れ高い人魚であれば一度お相手願いたいと思うのは男の性だろう。
偶然にも、俺の家は町外れにある。つまり噂の湖とは目の鼻の距離だ。
噂にせよ、火のないところに煙は立たぬと言うし、美人のお姉さまが居てもおかしくない。
そう結論付けると、俺は家の前を通り過ぎて湖のある森へと足を向けた。

ガキの頃から遊んでいる森は、言わば俺の庭のようなものだ。
例え目をつぶっていてもというのは大げさだが、月明かりの下を歩くのは太陽が燦々と輝く昼間と同じ位歩きやすい。
森の動物達は自分の巣穴で眠りについているのか、とても静かだ。
そんな中、ぽちゃんと何かが飛び込んだような水音が聞こえた。
聞き間違いかと思ったが、音のした方向には湖があるわけで、俺はあまりのタイミングの良さに人魚の存在を信じそうだ。
俺は焦る気持ちを抑えきれず、急ぎ足で湖へと向かった。

木々に囲まれる中、月の光を浴びてきらきらと輝く湖。
今日は風も吹いておらず、いつもであれば鏡のように穏やかな水面のはずが、今日はいく層もの波紋が広がっている。
そして俺は視界の端に人影を捕らえた。
相手の姿を確認するよりも早く、相手が声を発した。

「あんた誰」

俺の少し下か、同じ位だろうか。昼間輝く太陽の光を一身に浴びたようなオレンジ色の髪の毛をはねらせ、湖の水のように澄んだ青い瞳を持つ少年だった。
人魚がいるかもと思っていたから、思わずあっけに取られてしまったが、よく考えればこの世に人魚などという非科学的な生き物がいるはずもないよな。
自分の考えに恥ずかしさを覚え、また初めて会った奴に怪訝な顔をされる言われもなく、俺は普通に言葉を返す。

「あぁ?それはこっちの台詞だ。こんな時間に何してんだよ」
「見てわからないの。水浴びっしょ」

さらりと返ってきた言葉の通り、少年は一切服をまとわず、水につかっていた。
濡れた手でくしゃりと髪の毛をかき上げると、ぴょこぴょことはねていた髪の毛が落ち着き、オレンジの髪は濃さを増した。

「水浴びってな。こんな時間に水浴びをするやつがいるか、普通」
「現にここにいるじゃん」

確かにその通りだが、日も暮れた月明かりの下で水浴びというのはどうだろうか。
季節的に大分暖かくなってきたが、まだ水浴びをするのにはやや肌寒い季節だ。
よく平気で水につかっていると思う。

「いくらなんでも、まだ寒いだろ」
「あぁ、別に平気。だって俺、人魚だし」
「そうか、人魚なら仕方がないな。って、はぁ!?」
「聞こえなかったの?人魚って言っただけど」

読唇術の心得はないが、目の前の奴は俺でも読唇が出来そうなほどゆっくりと"に・ん・ぎょ"と繰り返した。
その言葉で、バーで女友達が言っていた噂と目の前のこいつが繋がっている事に気づいた。

「お前なのか?湖の人魚って。嘘だろ。俺の夢を返せ」

どうやって夢を返すのかわからないが、こうでも言わないと気がすまない。
相手からすればいい迷惑だろう。
だが火のないところに煙は立たぬと言うからこそ、俺はかなりの期待をしていた。
それが実際に噂の原因に会えば、そいつはどこからどうみても男で…。
いや待てよ。
そもそも噂の中に"女"というキーワードが入っていたか。
俺は人魚という単語から女を連想したわけで、噂自体に"女"というニュアンスはなかった。つまり、俺の勘違いという事か。
自分の早とちりでブルーな気持ちになっているところに、呆れたようなバカにしたような声でそいつが言葉を発した。

「あんた、一体どんな想像してたんだよ」
「そりゃナイスバディーなお姉さまの人魚に決まってるだろ!」
「ご生憎様。ここには俺しか人魚はいないよ」

ちらっと舌を出し、"残念だったね"と悪びれた様子もなく言われた。
まぁこいつが悪いわけじゃないのだから、悪びれた様子がないのは仕方がないが。
それに俺は本当に人魚を探していたわけではなく、噂の元になったお姉さまを探してたんだけどな。

「っうか、お前本当に人魚なわけ?」
「そうだけど。なんか文句ある?」

水から上がりながら、うんざりした顔で俺の事を見る自称人魚。
近くに置いてあったタオルで体の水気を拭う姿を見ながら、こいつのどこをどう見たら、人魚だと言えるのだろうかと俺は心の中で自問した。
どう見ても、しっかり足も2本生えてるしよ。
それともこれが"あの"噂の人魚だって言うのか?

「お前さ、噂と全然違うな」
「噂ってどんなのだよ」
「満月の晩に、綺麗な歌声をまとった人魚が湖の上を歩くって、俺は聞いたぞ」

先ほどバーで聞いた噂を伝えれば、目の前の自称人魚は納得したように頷く。
何か心当たりがあるのだろう。

「綺麗な歌声はセイレーン。確かにこの湖にもいるけど、人魚じゃないよ」
「なんだ、そのセイレーンって」
「鳥みたいな海の精だよ。たまに来るんだ。ほら、あの木の上に止まってる奴」

自称人魚が指差す方向を見れば、一本の木の枝に女性の顔をした鳥がいた。
目を何度もこすって見るが、どうやら見間違いじゃないらしい。
その異形の姿からは結びつかないほどの美声で、鈴が歌っているような音を奏でている。

「よく勘違いされるんだよね。人魚とセイレーンって。まぁ、湖の上は歩くけどさ」

衝撃的な事実を見せられ、俺は開いた口が閉じなかった。
正直、自分でもまぬけな顔をしているのだろうと思う。
そして案の定、自称人魚は俺をバカにしたような顔で笑い、俺の心の中を見透かしたように言葉を続けた。

「信じられない?なら証拠を見せてあげるよ」

そう言って、自称人魚は湖へと向かった。
そのまま歩みを進めれば、間違いなく湖に入るはずなのに、自称人魚はまるで地面を歩いているように湖の上を歩いた。

「嘘、だろ…」

湖面は鏡のように静かなまま、自称人魚はゆっくりと歩き続ける。
そして湖のほぼ中央まで行くと、芝居がかった仕草でお辞儀をした。自称人魚は完璧な勝利を確信しているような笑みを浮かべ、俺の事をじっと見ている。
俺はパンクしそうな頭をフル活動させて、自分でも苦しいと思う結論を導いた。

「お前、奇術師か何かだろ」

そうだ、きっと何かトリックがあって、俺はそれに騙されているだけだ。
そうでなければ、湖の上を人が歩けるはずはない。
俺は必死になってそう思おうとしたが、自称人魚が歩いた道筋に手を触れても、そこは普通の水でそのまま力をいれようなら湖に落ちるだろう。

「しつこいね、あんたも。っうかさ、お前って呼ぶの止めてくんない?俺にはラスティって言う、素敵な名前があるんだからさ」

自称人魚の名前はラスティと言うらしい。
割と普通だなと思ったが、口に出したら拳が飛んできそうだったから、賢い俺はその言葉を飲み込んだ。
厄介な事に首を突っ込まないと言うのが、俺の信念だからな。そうは言っても、現状が既に厄介な事な気がしなくもないが。

「で、あんたは」
「あんたって言うな。俺はミゲル・アイマンだ」
「ミゲルね。オッケー」

初めて会ったにも関わらず、ラスティは俺の事をファーストネームで呼び捨てされた。礼儀というものも知らないのかと言おうと思ったが、突然真面目な顔つきでラスティが俺の事を見た。

「悪い事は言わない。ミゲル、今日はこのまま家に帰った方がいい」
「いきなりなんだよ」
「人間には触れちゃいけない事があるだよ。ほら、早く帰りな」

反論を許さない強い口調のラスティの言葉に、俺は従うしかなかった。



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※ストーリー内の人魚設定は『世界の民話館 人魚の本』を参考にしたものです。
河合のオリジナルではありませんので、ご了承下さい。






モドル