矛盾
どうって事のない日常の中、ふいに"あの人"が僕の名を呼ぶ。

「クロト、待ちなさい」

そういわれたら、僕は逆らうことなんか出来るはずもなく、面倒くさそうに立ち止まると、睨みつけるように"あの人"を見た。

「何?僕、忙しいんだけど」

不満を前面に出した僕の態度に、"あの人"ことアズラエルは、小さくため息をついた。

「また、ゲームですか?全く、君には困ったものですね」

そんなの僕の勝手だろ。実験には協力してやってるんだ、それ以外のときに、僕が何をしようと文句を言われる義理はないね。

そう思ったものの、そんな事を言えば、だらだらとおっさんの説教が続くに決まっている。
僕は早くこの場を立ち去りたくて、あえてその言葉を飲み込んだ。

「で、何の為に僕を呼び止めんたんですか?」
「理由が必要ですか?」
「当たり前じゃん。おっさんは理由もなく、人を呼び止めるの?」

"おっさんって、暇なんだね"って、嫌味ったらしく言っても、アズラエルはその整った顔を歪めるでもなく、少し寂しげに笑った。

「誰にでもと言うわけではありませんよ」

"君だからですよ"と、いつもは見せない顔で言われた。
まるで、恋人に囁くような甘い言葉。
それは僕に向けるにしては、凄く不似合いな言葉だけど、その言葉に期待している自分がいるのを、僕は知っている。
だけどそんな気持ちを否定するように、もう一人の僕が叫ぶ。

ヤメテクレ

決して、アズラエルに届かない言葉だが、僕はそれを無視して会話を進める。

「どーだか。まぁ、僕には関係ないし」
「可愛げがありませんね。昔は"アズラエルさ~ん"って言って、あんなに懐いていたのに」

そもそも、男の僕に可愛げなんて言葉が似合うのだろうか?
答えは"No"だ。
だけど、この人はそんな事を冗談で言う人間じゃない。
そんな事は分かっているから、再びもう一人の僕が悲鳴を上げる。

キキタクナイ

耳をふさいで、このまま逃げ出したいとさえ思う。
だけど、そんな事は出来るわけもなく、その衝動に耐えてアズラエルの言葉を聞く。

「あの頃のクロトは、どこへいってしまたのでしょうね」
「何言ってんの?」

アズラエルの言葉をさえぎるように、僕は言葉を発した。

「そんなの、おっさんの記憶違いじゃないの?」

その言葉が嘘な事位わかっている。
度重なる投薬と手術で、僕は大量の記憶を失った。
どこで生まれたかも、自分の親がどんな顔をしていたのかも覚えてない。
もしかしたら、育ての親なんていなかったかもしれないけど、そんな事を知る術はない。
だって、僕の記憶は綺麗さっぱり消えているから。
でもそれも、ここに来るまでの記憶だけ。
どういう経緯で僕がここに来たか、今でもはっきりと覚えている。
この人に抱いた感情さえも、全て覚えている。
だけどだからそれがどうしたと言うのだろうか?
今の僕は生きたパーツ。
それを言い出したのは、他でもないこの前の人だし、それを了承したのはこの僕だ。
あの時に全て、僕はアズラエルに抱いていた気持ちを捨てた…はずだった。
それなのに、目の前のアズラエルは、そんな僕の気持ちなどお構いなしと言わんばかりに、昔みたいに接してくる。
少なくとも、今の僕が望んでいる事はこんな優しさじゃなくて、他の者に見せるような冷酷な態度だ。
どうしてこの人は、それが分からないのだろう。

「おっさんはさ、僕に何を望んでるんですか。犬みたいに尻尾を振って欲しいわけ?違いますよね」

皮肉たっぷりに言うと、先まで寂しそうにしていたアズラエルの顔が、少しずつ曇り始めた。
でも僕はそれに気づかないふりをして、言葉を続ける。

「そんなに僕を従わせたかったら、投薬の量を増やしたらどうです?そうすれば、何でもしますよ?」

そう言って、アズラエルを見上げて、僕は口の端を上げて笑って見せた。

「クロト!」

次の瞬間、体に強い衝撃が走る。
乱暴に制服の襟元を掴まれて、コンクリートの壁に押し付けられたから、背中がヒリヒリと痛むけど、それでも今自分に起きている事を客観的に感じてるところから、まだ大丈夫だと思えた。
それにしても、僕も人の事はいえないけど、よくこんな細い体にこんな力があるものだと、感心する。
でも、この襟元を掴む手は、自分よりずっと大きいものだと、思った事もあったんだよね。
そんな懐かしい思いに浸りつつも、それをまた得たいと思うほど、今の僕は子供ではない。

「ほら、そうやって力でねじ伏せれば、簡単でしょ?"アズラエルさん"」

そう言い捨てると、僕を押さえつけていた手の力が抜けていく。
その隙をついて、アズラエルの手を振り払い、少し間合いを取る。

「僕に優しくしても無駄ですよ。どうせ僕は、パーツなんですから。それを決めたのは、あなたでしょ?」

その一言が決め手になった。
アズラエルはなんともやりきれない表情を見せ、僕に背を向けた。

「確かに、君の言うとおりです。クロト」
「なら、もう僕に構わないでくれます?」
「それは無理な相談です」

凛とした声で、アズラエルが言い返す。
まさか、そんな言葉が返ってくるとは思わず、少し困惑していると、アズラエルはくるりとこちらを振り向いた。
そして僕の方に、1歩ずつ近づいてきた。

「僕が君を巻き込んでしまったんです。それは言い逃れ出来ない事実です。ですが…」

そこで言葉を切ると、アズラエルの手が僕に伸びてきた。
さっき、僕の襟元を乱暴に掴んだ手は、そっと僕の頬に触れ、アズラエルが僕の瞳を捕らえた。

「だからと言って、君を手懐け様と思ったことなど、今まで一度もありませんよ。これだけは信じて下さい」

そういうアズラエルの顔が、今にも泣きそうなくらい頼りなくて、僕の心はチクチクと痛んだ。
そしてアズラエルの顔を見ていられなくて、僕はぷいっと下を向いた。
そんな僕の頬に、アズラエルはそっと口付けをした。

「では、僕も仕事が残っていますので、失礼しますよ」

なぜか、離れていくアズラエルの手が名残惜しいと思った。
僕のいる方とは反対方向へ進むアズラエルに、思わず手を伸ばしそうになったが、僕はそれをこらえるために、ぐっと右手を握り締めた。




僕が望んでいるのは、こんな事じゃなかったはずなのに…。
何度も頭に言い聞かせるが、ドクドクと言っている心臓の鼓動を止める術を僕は知らない。
あぁ、うざったらしい。煩わしい。こんなもの。
いっそうのこと、全て機械仕掛けになってしまえばいいんだ。
そうすれば、この痛みからも解放されるのに。

ねぇ、アズラエルさん。
同情からくる優しさなんかいらないから、一思いにスクラップにしてよ。
そうすれば、僕は幸せになれるんだからさ。



END





モドル