異常の中の安眠法
頬に残る痛みに触れ、自分でもバカな事をしたものだと、オルガは苦笑した。
今から1時間前、オルガとクロトは殴り合いのケンカをした。
挑発をしてきたのはオルガで、それに乗ったのはクロト。
原因はクロトがやっていたゲームの音だった。

新型MSパイロットもとい部品として扱われている彼らには、待機の間、同じ部屋にいる事が義務付けれられている。
それは個人行動を好む彼らには窮屈なものでしかなく、彼らが些細な事で衝突する事は、決してまれな事ではなかった。

その時、シャニは投薬のテストの関係で研究員に呼ばれており、部屋にはオルガとクロトの二人しかいなかった。
オルガとクロトはお互いの時間つぶしに、ゲームと読書に熱中していた。
それはいつもの事であり、その時だけクロトがゲームの音をうるさく流していたわけではない。
しかし、その時のオルガにはそれがいつも以上に勘に触ったのだ。


完璧、睡眠不足の所為だな。


部屋に戻る通路で、オルガはそう結論付けた。
いささか気が短いところはあるが、自分が不眠症に陥るなど、オルガは今まで予想もしていなかった。
そういうのは、自分よりも外見も中身も幼いクロトの役目だとオルガは思っていた。
ちょっとした事でもすぐにムキになり、感情が表面に出やすい。
それはクロトの内面が、非常にもろくナイーブである事を示している。
生意気な口をきき、相手を挑発するのは自分がその者より上位にいようとする現れであろう。

それなのにクロトは不眠症になる事無く、規則正しい生活を送っている。
睡眠障害という意味では、シャニの方が近いものがあるかもしれないが、彼の場合は外界と自分のいる空間を遮断する為に、自ら眠りについているといった方が妥当だろう。

結局そのような予測は意味をなさず、オルガだけが不眠症に陥り、その八つ当たりとしてクロトにキレたのは事実だ。

世間では喧嘩両成敗というのがある。
ケンカを売った方も買った方も悪いというやつだ。
しかし今回は個人の問題であり、お咎めはクロト一人だけになった。
仕事であれば一人のミスは三人のミスに繋がるが、こういった日常の場で、彼らが平等に処罰を受けると言う事はまれだと言える。
今も自分は一人先に待合室に戻ってきたが、クロトはまだ戻ってきていない。
大方、アズラエルに小言の1つや2つ言われているのだろう。
その原因が自分にあるとは言え、素直にそれを認められるほど、オルガは大人ではなかった。

人は普段慣れていない環境にいると、異常をきたす事がある。
しかしその環境そのものが異常なここでは、慣れる慣れないは関係なく、何が普通で何が普通でないのかの方が、大きな意味を持っていると言えよう。
ただ彼らの場合、それを判断する事すら出来ないが為に、それすらも意味を持たなくなっていた。



オルガは読みかけの本に手を伸ばすが、睡眠不足の頭では本の内容を理解するのは難しく、ただ文字に目を走らせるだけの、疲労行為になっていた。
それでも本を読む事(正確には本の文字を追う事)を止める気配はなく、ただ時間だけが流れていった。

シュンと音がし、視線だけ開いたドアに向けると、そこには頬に湿布を、口元には絆創膏を貼ったクロトが立っていた。
それを見て、自分とは大違いだなと、軽く頬に残る痛みに触れた。
一応、白兵戦の訓練を受けているので、基本的な条件は同じ。
それでもこの差が生まれたのは、男としては少々細いラインの所為としか考えられない。よってクロトよりも力のあるオルガの拳が、クロトの頬に大きなあざを残す結果となったのは、当然と言えば当然の事。

自分に向けられている視線に気付いたのか、クロトは少しだけオルガを睨みつけるように視線を絡めた。そして続いていつものように罵倒がとぶかと思っていたが、クロトは静かにオルガの傍まで来て、オルガが腰を下ろしているソファの開いているスペースに腰を下ろした。
ソファーの左側に普通に座っているオルガに対し、クロトはソファーに寝転がるように側面を向いて座っている。決して大きくないソファーは二人が座ると、本来であれば肩を並べるようになるはずだが、浅く座っているオルガの肩にクロトが背中を預けているという感じになっている。

「どういう風の吹き回しだ?」

不思議に思いつつそう問えば、クロトからは"別に"の一言が返ってきた。
だが先ほどの状況から言って、これは不思議以外のなにものでもない。

なぜケンカした相手に背を預けられるのか。
自分もクロトも、特に先ほどの事を謝罪はしていない。
最もオルガは八つ当たりをしてしまった事に対して悪いとは思っているものの、それを素直に謝る気持ちは毛頭無い。
それならばクロトはどうだろうと思っていると、無愛想な声でクロトは言った。

「僕は謝らないからね。オルガが悪いんだから」

自分同様、謝る気ゼロのクロトに"やっぱりな"と思いつつも、それでも自分に背を預けるクロトに、オルガは自然と口元が揺るのを感じた。
他人に背を預けるという行為は、相手に心を許している証拠である。
言葉とは裏腹に、クロトの態度はわかりやすく、またそれに救われている自分がいるのも確かで、これはこれで悪くないとオルガは思った。

先ほどまで不愉快で仕方なかったクロトのゲーム音が再び部屋を満たしている。
しかし今度はさほど不快に感じる事は無く、オルガはそれをBGMにし、再び本に視線を走らせた。



ゲームも終盤に差し掛かろうという時、背に先ほどまでは感じなかった重みを感じ、クロトはゲームをポーズを押して一時中断した。
今、自分が背を預けているのは、脇(正確には後ろ)に座っているオルガである。
今まで大人しくしていたオルガが、いきなり体重をかけてくるというのは考えにくい。

「オルガ?」

声を掛けてみるが、一向に返事が返ってこないので首をひねって見てみれば、本を開いたままオルガは眠りについていた。
いきなり体重をかけられた理由を理解し、クロトはそのままオルガが倒れてこないように気をつけながら、ソファーからおりた。
正面から眺めると、整った顔は目を瞑る事で少し幼さを含んでおり、いつもこうならいいのにと思う。

「なんだ、眠れるんじゃん」

誰に言うわけでもなく、クロトは一人呟いた。

クロトもシャニも、ここ最近のオルガがまともに睡眠を取っていない事は知っていた。しかしだからと言ってどうする事も出来ないし、下手に心配するそぶりを見せれば、また先ほどのようなケンカに発展する。
お互いの傷を舐めあうような事はしたくないと、クロトは思っていた。
だからあえて、気付いていないふりをしていた。
それが自分達の関係を守る事であると信じて止まなかったからだ。

外部の奴ら(この場合は、自分やシャニ、オルガ以外の人間を指す)にはわからないだろうか、彼らは彼らでお互いを認めていた。誰かを否定するような事があれば、それは自分をも否定しかねない事をわかっていたからだ。
個々の人格があろうと、彼らは同類なのだ。
同じ薬に溺れ、戦場に身を沈める以外に生きる術を知らない。
口に出すのは躊躇われるが、運命共同体であるのは確かだ。

「あれ?オルガ寝てるの」

やっと投薬のテストから開放されたのか、数時間ぶりに顔を合わせるシャニが後ろから言葉を投げかけてきた。

「お疲れ、シャニ」

シャニの問いに答えず、労いの言葉をかけるクロト。
それを肯定を受け取ったシャニは、クロトの脇に並ぶとじっと目の前のオルガを見た。いつもであれば眉間にしわが寄っている顔も、寝ていれば無防備で、シャニはオルガの頬を左右にひっぱってみた。

「ちょっと、シャニ。何やってんだよ」
「なんとなく」

小さくオルガは唸るが、それでも尚目覚める事のないオルガに、シャニはつまらなそうに手を離した。

「なんだかんだ言って、オルガって結構デリケートなんだね」
「僕達よりも"まとも"って事なんじゃん」

インプラントレベルで言えば、この三人の中でオルガは一番レベルが低い。
薬への耐久性、柔軟性、何が作用しているかはわからないものの、レベルに差が出たのは、投薬を始めた時期か、それとも持ち合わせている体質か。
どのみち、それらは近い将来意味をなさなくなるが、それでもこの生活の中で、体が異常だと警告を出す神経を持つオルガは、まだ"まとも"だと言えるだろう。

「ふ~ん。どうせ俺達みたいになるのにね」

それは戦争が続く限り避けられようの無い未来である。
薬に馴染んでしまった体は、規則的に薬を摂取しないと、禁断症状を引き起こす。
ただの麻薬以上に依存性の強い薬、それがγグリフェプタンだ。
薬の依存症で死ぬか、戦場で死ぬか、その2つの選択肢しか持ち合わせていない自分達には、自己の崩壊でさえどこか他人事で、クロトは"まぁね"と頷いた。

「このまま眠り続けられたら、その方が幸せなのかな?」

オルガの寝顔を見ながら、ぼそりと呟くシャニに、クロトはびくりと自分の肩が震えたのを感じた。
眠り続ける、つまり永眠、死。
確かにそうすれば楽ではあろう。
何も考えなくてすむ。
だけど、それは違うと頭の隅で叫んでいる自分がいる。

「そんなわけないだろう」

生きたいから眠りにつく。
生きるために眠りにつく。

そう言う方程式が頭にあるクロトとしては、シャニ言葉に頷きたくはなかった。

「そっか…」

納得したのか、納得していないのか。
それさえも判断しにくいシャニの反応に、クロトは手にしていたゲームに視線を落とした。

「なんか、僕も眠くなったから寝ようかな」

話をはぐらすように、クロトはいつものトーンで言うと、一時停止していたゲームの電源を落とし、すぐ脇にあるテーブルの上に置く。
先ほどまで治まっていたソファーに再び腰を下ろすと、シャニが寄って来た。

「クロト、膝枕」
「はぁ?こんな狭いスペースに無理だろ」

どう考えてもこのソファーは二人用で、ここにシャニが座る事は無理だろう。ただでさえ、クロトは横座りをしていてスペースが狭いのだ。
シャニはクロトの言葉にしぶしぶ納得し、テーブルを少し蹴ってスペースを作ると、そのまま床に座り込んだ。

「そんなところに座って寝るの?体、痛めるよ」
「平気」

そう言って答えると、シャニは愛用のアイマスクをつけて頭をソファの縁に押し付けた。ちょうど横向きのクロトの太ももあたり、シャニの頭がくるようになった。

「おやすみ、クロト」
「お休み」

若草色の髪の毛を軽く梳き、クロトも瞳を閉じた。

馴れ合いなんてゴメンだけど、こうして肌を寄せ合う事は嫌いではないと思う。
それが異常な世界に身を置く、自分達の安眠法と信じて疑わないから。



END





モドル