風邪ひき
緑に囲まれた白い建物。
自然界に不自然に存在するそれは、地球連合軍の秘密施設だった。
そこではコーディネーターに対抗すべく生まれた秘薬-γグリフェプタン-を投与された強化人間のオルガ・クロト・シャニの三人が密かに訓練を受けていた。
そしてこの日も、いつもと変わらない一日が始まるはずだった。



訓練が始まるまでの時間、オルガ・クロト・シャニの三人は彼らに与えられた待合室にいる事が義務付けられている。
オルガは右手に暇つぶし用の本を持ちやってきたが、部屋の中にいたのはソファの上で大の字に寝ている緑髪の少年-シャニ-だけだった。それは几帳面なクロトにしては珍しく、オルガはもう一人のお仲間であるシャニに声をかけていた。

「おい、シャニ。クロトはどうした?」

オルガの声に、シャニは面倒そうにアイマスクを外して部屋を見返した。
やたら目立つ赤髪の少年がいない事を確認し、シャニはオルガに視線を移す。

「まだ寝てるんじゃないの?」

1つの可能性を口にし、シャニは眠そうに欠伸をした。
シャニのその言葉に、オルガは壁にかかっている時計に視線を移し、時間を確認した。

「訓練時間が9時からだって知ってるのにか?」
「大方、徹夜でゲームしてたんじゃん」
「ったく、あのバカ」

少し毒づきながらも、まだ来ぬクロトを心配するようにオルガは呟いた。
一見、仲が良い様には見えない三人だが、几帳面なクロトと面倒見の良いオルガ、そしてマイペースなシャニは絶妙なバランスを保っていて、周囲が思っているよりも彼ら三人相性はよかった。

「オルガうざ~い。そんなに心配なら見に行ってきてよ」
「なんで俺がっ…」
「言い出したの、オルガだから」

シャニの言葉に異議を唱えようとしたが、実際に自分が先にクロトの事を言い出したのも事実で、オルガは溜息をつき、手にしていた本をテーブルの上に置いて部屋を後にした。



「だ・る・い…」

クロトは一人、ベットの中でぼそっと呟いた。
オルガとシャニは、クロトがまだ眠っているものと思っていたが、当のクロトは7時頃から目覚めてはいた。
しかし得体の知れぬ気だるさが体を襲い、ベッドから抜け出せずにいたのだ。

「どうしよう。訓練…」

視界に入る時計の針は、9時を少し回ったところを指している。
今からでは食堂でゆっくり朝食をとる事など出来ないと思いつつも、胃袋がロボットにでもなったのか空腹感はない。
ならそのまま訓練に向えばいいとも思うが、体は鉛になったように重く、これっぽっちも言う事を聞いてくれない。
正直、アズラエルの"お仕置き"も嫌だが、クロトにはなす術がなかった。

仕方ないよね、僕の所為じゃないし。動けないだからさ。

そう思い、瞳を閉じて再び眠りにつこうとした時だった。

「おい、クロト!てめぇ、いつまで寝てる気だ?」

ガンガンと扉を叩く音と、オルガの機嫌の悪い声がクロトの耳に届いた。
ドアを叩く音が頭に響き、クロトはシーツを頭の上から被った。
正直"うるさいんだよ、ヴァーカ!"と文句の一つでも言ってやりたかったが、今のクロトにはそれを口にするのも辛くて、言葉を飲み込んだ。

「聞いてんのか?入るぞ」

クロトからの返答が無いのに違和感を感じたオルガは、そう言うとずかずかとクロトの部屋に入ってきた。
プライバシーなどというものが存在しない彼らの部屋には、鍵などは付いておらず、誰でも簡単に入る事が出来るのだ。
そしてクロトのベッドまで来ると、クロトが頭の上から被っていたシーツをべりっとはがした。

「おい、起きろ」
「無理…」

気だるそうな声で、そう一言だけ呟いたクロトに対し、オルガの(元々細い)堪忍袋の緒が切れた。

「てめぇ、何考えてんだ。時間みて動けよな!」

首元を掴みはしなかったものの、オルガはぐっと手首を掴んでクロトを起こした。
元々自分より細い体つきなのは知っていたが、それとは違う違和感を感じた。
それが何かを理解したオルガは、少し顔をしかめた。

「お前、なんか顔色悪いぞ。手も冷たいし」
「やっぱり?」

"やっぱり"と言う様に、クロト自身も自覚があるのだろう。
その言葉にオルガはまさかと思い、クロトのおでこに手をあてた。
自分よりも低い体温を感じ、クロトは軽く目を閉じる。
人の体温はどこか優しく、ほんの少しだけ痛みがひくようだとクロトは思う。

「体温が異常に高いぞ、お前」
「だから、だるいんだよ」

血色の悪い顔、冷たい手先、そして普段より高い体温。
それらから予想される事態は唯一つ。

「お前、風邪ひいたのか?」
「多分ね」

辛いそうにそう言うクロトをベッドに横にし、オルガは溜息をつく。
そしてクロトが中々起きて来なかった理由を理解したオルガは、クロトの上にきちとシーツを掛けてやった。

「取り合えず、おっさんに報告してくる。お前は寝てろ」

"言われなくても寝てるだろう"と言うクロトのツッコミを無視し、オルガは部屋を出て行った。



「全く、情けないですね」

クロトを見下ろし、アズラエルは大きなため息をついた。
オルガにクロトが風邪をひいた事を聞き、ここまで来たのだが、アズラエルもまさか生命CPUであるクロトが風邪をひいてダウンするとは思ってもいなかったのだ。

「コーディネーターは風邪などをひかないと言うのに、君たちはダメダメですね」

しかしアズラエルのこの発言も、どうかと思う。
コーディネーターの場合、遺伝子に含まれる病気にかかる可能性がある部分を修正し、免疫力を高めている為に風邪などにかかりにくくなったのだ。
よって、薬でドーピングをしているだけのクロト達が、コーディネーターのように病気にかからない体になると言う事自体、土台無理な話である。

「誰か研究室の者を寄越しますから、少し待ってて下さい」

"全く、手間のかかる…"と呟くアズラエルに、クロトは間髪をいれずに答えた。

「嫌だ。誰も来なくていい」
「はい?」
「あいつ等なんかの手はいらないって言ってるんだよ」

自分達を"物"として見てる"彼ら"に、自分の身体を見てもらう事を、クロトは特に嫌う。
アズラエルも、何度かそんな風に嫌がるクロトを見ているから、クロトが拒否すると言うのも、予想範囲ではあった。

「本当にいいんですか?」
「あぁ。おっさんも、もう行けよ」

体調が悪いにもかかわらず、悪態をつくクロトに、アズラエルは"やれやれ"と言いながら、すくっと立ち上がった。

「そうですか。では、せいぜい頑張るんですよ」

"大切な体なんですからネ"と言って、アズラエルは退室して行った。
アズラエルが出て行き、再びクロトの部屋に静寂が訪れた。

「何が"大切な体"だよ」

アズラエルが言った言葉を自分でも口にし、元々良くなかった機嫌が更に悪化したのを感じた。

アズラエルが欲しているのは、"クロト・ブエル"という個人の体ではなく、コーディネーターに対抗できるMSの生体CPUの方だ。
それにアズラエルは多額の資金を投資しているのだから、風邪ごときでダメになっては無駄な浪費になってしまう。
そういう意味では"大切な体"なのだろうが、クロト自身を気遣っての言葉でない事は明白だった。

どうせ、僕を心配してくれるヤツなんて、一人もいないし。

別に、誰かに同情をして欲しいわけではない。
もしそのような者がいるのなら、クロトはこちらから願い下げだと言うだろう。
それでも風邪で弱った体には、普段とは違う"優しさ"を求める作用が少なからず含まれているとも思う。

「もういいや。寝よ…」

収拾の付かなくなった考えを捨てる為、クロトは意識を手放すべく、瞳を閉じた。



「で、結局クロトは寝てるの?」

第一訓練を終え、シャニは先に終えていたオルガに待合室で声をかけた。
訓練が始まってもしばらくオルガは戻ってこず、シャニは一人先に訓練を始めていた。途中でオルガが訓練に参加したのは気付いていたものの、互いに別の訓練をしていた為に、クロトの様子を聞く暇は無かったのだ。
そして訓練終了後、やっとオルガと言葉を交わす事が出来るようになり、シャニはこの時初めて、クロトが風邪でダウンしている事を知った。

「あぁ。さすがにおっさんも、風邪ひいてるクロトを叩き起こす事はしなかったみたいだぜ」

それはクロト本人を気遣うというよりも、大切な生体CPUをダメにしたくないという気持ちだろうという事は簡単に予想できたが、無理に訓練をさせられるよりは幾分マシだろうとオルガは思っていた。

「へぇ~。ねぇ、ご飯はどうしてるの?」

次から次へと質問を投げかけてくるシャニに、オルガは面倒そうに答える。

「俺が知るわけないだろ。大方、研究室の奴らが…」
「そんな親切な奴らだっけ?」

シャニの発言に、オルガは沈黙で答えた。

んな訳、無いな…。

必要最低限の生活は保障されているだろうが、彼らがわざわざ食事を運ぶ姿は想像できない。
いい所で点滴だろうなと、オルガは結論付けた。
シャニも心の中で答えるオルガと同じらしく、無言で"でしょ?"と問いかける。

「オルガ、見てきたら?」
「なんで俺なんだよ。言い出したのお前だろ」
「乗り掛かった船だろ」

またしても溜息をつき、オルガは再びクロトの部屋に向かった。



どこまでも続くような闇の中、クロトの意識はどろりとした重さに身を包まれていた。
体が重いのか、それとも意識が沈んでいるだけなのか、それさえも判断出来ないほど自分は弱っているとクロトは感じた。
すこぶる居心地が悪い場所にも関わらず、その闇から抜け出す方法も見つけられないクロトは、静かにその身を闇に預けていた。

しかし唐突に、冷たい感触がクロトの額に触れ、ゆっくりと目を開けた。
まだどこかぼーっとする意識の中、聞きなれた声が届いた。

「なんだ、起きたのか?」
「オル…ガ?」

今まで目を閉じていたから、急に入ってくる光が眩しくて、クロトは顔をしかめた。
しかし次第に慣れてくる目。
少し視線を泳がせれば、自分のベッドの脇ある氷水の入った洗面器が視界に映った。そこで、この冷たい感触は濡れタオルなんだろうと、クロトは判断した。

「っうか、なんでここにいるの?」
「様子を見にきたら、さっきより熱が上がってたからな。おっさんに言って、お前の面倒を見る事にしたんだよ」

クロトがアズラエルの申し出を断った為に、熱があがった事は知らないが、オルガも"彼ら"に看病されるのは、多分クロトが嫌がるだろうと思い、アズラエルに申し出たのだ。
初めはそれも拒否されると思っていたが、オルガの予想に反してアズラエルはあっさりとそれを認め、オルガ達が午後から受ける予定だった訓練の取りやめを決めてくれた。
最もそれは、三人が揃わないといけない訓練だったからかもしれないが、それでもあのアズラエルにしては寛大な処置だった。

「そう…」
「今シャニが、お前の食事を作ってもらいにいってるから、もう少し起きてろよ。それで薬飲んでから寝ろ。じゃないと意味がないからな」
「うん、わかった」

なんとかオルガの言葉に返事を返すものの、その声はどこか掠れており、苦しそうに答えているのがオルガにも分かった。

「大丈夫か?ほら水…」

クロトの背に腕を回して起こすと、クロトはオルガから受け取った水を、こくこくと喉を鳴らして飲み干した。
冷たい水がのどを潤していく。
それは砂漠の砂に水が染み渡っていくように、あっと言う間に吸収された。

「まだいるか?」

オルガのその言葉にクロトは首を横に振り、グラスを返した。
グラスを脇に置くと、オルガはまだだるそうにしているクロトをベッドに横にし、肩まで上掛けを掛けた。

「他に何かいるものあるか?」
「ううん。平気…」

とろんとした目でオルガを見るクロト。
まだ熱が高いからか虚ろな目をしている。

ここまで弱ったクロトを見るのは久しぶりだと思いつつ、実は今までそれを直視せず、避けてきていたのではないかと問う自分がいる。
確かにクロトはもう一人の自分である。
それはオルガだけでなく、シャニにもなりうる。
自分達は所詮この程度の存在だという事実を見せ付けられるようで、オルガは自然と眉間にしわが寄るのを感じていた。

「オルガー。クロトのご飯持って来たよ」

オルガの雑念を打ち消すように、シャニがクロトのご飯を持って現れた。
トレーの上には野菜のスープ<コンソメ味>とフルーツの入ったお皿、そしてオレンジジュースが入ったグラスが乗っている。
クロトに手を貸して起こしてやり、ベッドの上を整えて食事を取れるようにすると、シャニはそっとトレーを置いた。
目の前に置かれた食事を見て、クロトはボソッと口開いた。

「僕…野菜好きじゃないんだけど…」
「文句言わないで食えよ。薬飲めないだろ」

オルガにそう言われ、それも最もだと、クロトはゆっくりとした動作でスプーンに手を伸ばした。
透き通ったスープの中に浮ぶじゃがいもとベーコンをすくうと、それを真っ直ぐ口に運ぶ。モグモグと口を動かし、ごくりと喉が鳴った。

「…美味しい」

意外そうにクロトが呟いた。
そしてゆっくりとしたペースだが、スプーンは何度もお皿とクロトの口とを往復する。
そんなクロトを、オルガとシャニは静かに見守った。



「ほら、風邪薬」

デザートであるフルーツを食べ終えたクロトに、オルガは小さな錠剤を手渡した。
γグリフェプタンに影響を与えないように、研究員が特別配合した薬。
それを受け取ると、クロトは無表情で飲み込んだ。

「じゃあこれ、返してくるな」

無事、食事を終え、薬を飲み終えたクロトを見届け、オルガは空になったトレーを持って、部屋を出て行った。

「大丈夫?クロト」

ベッドに再び横になったクロトを覗き込むように見ると、シャニはクロトの額に手を伸ばした。ぴとっと触れた手は、元々シャニの体温が低いのか、それともクロトの体温が低いのか、かなりの体温差を感じるものだった。

「うん…まだちょっとダメ。だから寝る」

そう答えると、シャニは頷いた。
きちんと上掛けをかけてやり、シャニは立ち上がった。

「そっか。他に何かいるものある?」
「特に無い」
「わかった。じゃあ俺も行くから」

静かにドアに向かい、ドアの脇にある電気のスイッチの所でもう一度クロトの方に向き直った。

「お休み、クロト」

いつもより柔らかな声に、クロトは閉じかけていた瞳を開き、シャニの事を見た。

「ありがとう…シャニ」
「どういたしまして。オルガにも伝えとくから」

そう言って部屋の照明を落として、シャニは部屋をあとにした。

クロト一人になった部屋はシンと静まりかえっていたが、先刻のような嫌な感じは襲ってこなかった。
その理由は今さっきまでいたオルガとシャニのお陰だと理解した。

「僕、一人じゃなかったんだ…」

暗い部屋の中、クロトは頬に一筋の涙が零れるのを感じた。



END





モドル