「"アズラエル理事"ですか…」

先ほどクロトに呼ばれた呼び方を復唱し、本当に彼の中から"僕"に関する記憶が消えてしまった事を再認識した。
あの手術をする事で、クロト達の記憶に影響がある事はわかっていた。
そしてその手術を許可したのは、間違いなく僕自身なのに、いざ記憶を無くした彼に会ってみると、そのショックはとても大きいものだという事に気付いた。
それは彼が僕の心を占めていた量に比例している。

「僕はどうすればいいのでしょうね…」

手術を終え、目を覚ました彼らに言った言葉に嘘や偽りは無い。
そもそも彼らは生体CPUになる為に選んだ人材だ。
こうなる事は始めっから分かっていた。
それなのに僕はただ共にいたいという身勝手な願いから、一番大切な者を選んでしまった。
だからこれは、僕自身への罰なのだと思う。

「どこまでも堕ちないといけないんでしょうね」

彼らを生体CPUにした罪深い僕ですから、僕は悪い人を演じる必要があるんでしょうね。そうすればクロトも僕の事を恨んでくれるでしょう。
それが唯一、自分が楽になる方法だと信じて、僕は次の日から鉄の仮面を被る事にした。


それからしばらくは、クロト達に会わない日が続いた。
それは僕が故意に避けていたというわけではなく、理事としての仕事が入っていたからだ。
理事としての仕事を片付け、久しぶりに訪れた研究施設。
研究員の手から、3人のデータを受け取り、それに目を通す。

「それで、彼らの様子はどうですか?」
「それが少々、困った事になっていまして…」
「困った事?」

その研究員の言葉に眉をひそめつつ、僕は実験室へと向った。
研究員の話によると、クロトが実験を拒み続けているのだという。
もともと素直なクロトが、記憶を消した事により、年相応の性格になったというところだろう。

冷たいガラス越しに、実験の経過を覗いた。
やぱりクロトは研究員相手に、反抗している。
今までの僕であれば、ここはクロトを説得して、大人しく実験を受けさせていたところでしょう。
でも僕と君の関係は、もう昔のようには戻れないんですよ、クロト。

「僕が彼と話します」
「了解しました」

研究者の一人に連れられ、隣の実験室へと入る。
ドアが開いた瞬間、ちょうどドアに視線を移していたクロトと視線がかちあった。
以前であれば、にっこりと笑みを返すその顔は、明らかに嫌悪と憎悪を含んでおり、自分が歓迎されていない事を突きつけられたようだった。
それでも僕は平静を装い、クロトに声を掛けた。

「お久しぶりですね、クロト。どうして、実験を拒むんです?」

わざと目線を同じ高さにしたにも関わらず、クロトは視線をあわせる事無く、ぷいっと顔を背けた。

「うっさいなぁ。僕にかまないでよね!あんたには関係ないじゃん」

さも当然のように言うクロトに、僕は小さくため息をつくと、右手に力を込めた。

パンッ

部屋に響いた乾いた音を、僕は他人事のように聞いていた。
目の前のクロトは少し唖然としていたが、急に我に返って僕の事を睨みつけてきた。

「何すんだよ!!」
「どうやら君は、何か勘違いしているみたいですね」
「何が」

噛み付きそうな勢いで聞き返すクロトの顎を掴むと、ぐいっと上を向かせて視線をあわせた。

「君は僕の物なんですよ。だから君がどう文句を言っても、僕が決めた事は絶対なんですよ」
「僕はモノなんかじゃない!」

ばしっと手を払われ、クロトは少しだけ後ずさりして僕との間に距離をとった。
それはまるで、傷ついた子猫のようでもあった。

「君は物なんですよ、クロト。そう契約を交わしているんですから」
「契約なんて知らない。そんなの、あんたが勝手に言ってる事だろ!」

過去の記憶を全て失っているクロトにとって、確かに僕の言葉は全て嘘に聞こえるのだろう。
それでも、あの幼かったクロトが自らの意思で、ここに来た事実は変わらない。
僕の為にと言って、自ら被験者になったのはクロト、君なんですよ。

「君は僕が嘘を言っているとでも、言いたいのですか?」
「当たり前だろう。いきなり過去の記憶は全部消した。君たちは僕の所有物で、世界の為に人を殺さないといけないって言われて、誰が"はい、そうですか"って言うと思ってんだよ」

クロトの言葉は、どれも間違ってはいない。
もし間違っているとしたら、それはこの世界か僕自身なのかもしれない。
それでも、僕にはこうする事しか出来ないんです。

「なら、一つ証明してあげましょう。僕の言っている事が、嘘でない事を」
「出来るのかよ、そんな事」
「えぇ。ただし、君には苦痛を味わってもらいますがね」
「どういう事だよ、それ」

クロトの問いには答えずに、僕は脇で一部始終を見ていた研究員に向って口を開いた。

「クロト・ブエルへの投薬を1回分しないで、隔離しておきなさい」
「えっ?」

何を言っているのか、さっぱりわからない。
そんな顔をしているクロトを無視し、僕はさらに指示を続ける。

「自分を傷つける恐れもあるので、凶器になるものも全て回収するように。これは命令です。わかりましたね」
「はっ。了解しました」

そう言うと、研究員達はクロトを抑え始めた。
これから別の部屋に隔離する為だ。
勿論、いきなりわけのわからない事を言われ、大人しくしているわけもない。
がむしゃらに暴れて、研究員達の手から逃れようとしているが、それもまだ準備段階の彼なら、大勢の大人に押さえつけられたら手も足もでない。
床に押さえられ、それでもクロトは憎しみのこもった目で、僕の事を睨み上げた。
そして僕は、最後に絶望の言葉を送る事にした。

「君は今、自分が投薬されている薬について何も知りませんでしたよね?」
「聞いても、誰も答えないからだろ!」
「γグリフェプタン。それが君たちに与えている、薬の名前です」

近くにあった茶色のアンプル瓶に手を伸ばし、わざとクロトの前で揺らす。
クロトの瞳には、さっきまで僕に向けていた嫌悪感や憎悪間が消え、変わりに不安の色に染まり始めていた。

「この薬を投与された者は、あのコーディネーターに匹敵する力を得る事が出来るんです」
「へぇー。なら、僕にそれを投与していいの?僕、ここから逃げるよ」

不安をかき消すように、わざと生意気な口をきくクロトに、僕は笑みを浮かべた。

「そうですね。確かに、これから段階が進めば、君は僕達をなぎ払って逃走する事も可能でしょう。でも、それを僕が許すと思いますか?」
「許す、許さないは関係ないね。僕は自分の好きなように生きる」

あの日、自ら被験者を名乗りでた時と同じ瞳でじっと見つめ返してくるクロト。
その瞳には、なんの迷いもない。
実は、僕は君のそんなところが気に入っていたんですよ。

「ですが、この薬には一つだけ問題点がありましてね。依存性が凄く高いんです。ある一定間隔で薬を摂取しないと…」
「せっ、摂取しないと、どうなるんだよ」
「君、死んじゃいますよ?」

クスリと笑えば、クロトの体から一気に力が抜けていくのが分かった。
その顔には、今まで認めたくなかった事実を受け止めるしかないという諦めと、これから待ち受けているお仕置きへの恐怖心が宿っていた。
僕はアンプル瓶を研究員に渡すと、恐怖に歪むクロトの顔を見ていたくなくて、実験室を後にした。
実験室からは、クロトの虚しい叫び声だけが響いていた。


やはり僕は卑怯な人間らしい。
自分で命令を下しておいて、それを見届ける事が出来ないのだから。
でも仕方ないですよね。
僕はまだ、彼のことが…。



END





モドル