「それも全て私のもの」
どうしてもほしい楽譜があるからと、イヌ君の事を放置し、一人探し物に没頭していたのが、今から20分位前の事だろう。
しばらくは静かに店内を見ていたイヌ君が、軽く肩を叩いてきたのは、その5分後のことだ。
彼にとって楽器屋の楽譜スペースで仕入れられる情報には限界があるのだろう。
もしくは朝から連れまわしていた疲労が溜まったのだろうか。
一通り買い物も済んだだろうし、この後一息入れるために、並びのカフェにいるという提案を受けた。
私は快く了承し、その後、お目当ての楽譜を手に、店を後にした。

休日の午後ともなれば、街中のカフェは人であふれかえっている。
空調のきいた室内に限らず、テラス席も同様だ。
何とか、彼の姿を確認し、自分の飲み物を買う為、列が出来ているレジに並ぶ。
レジでオーダーを済まし、席を取るスタイルのお店なので、イヌ君が先に席を確保してくれたのは、とても助かる。
先ほど確認した感じだと、彼はコーヒーしか購入していないようなので、自分の飲み物と甘いケーキでも一緒に買おうと心に決める。

やっとレジが近づき、ガラスのショウケースに並ぶケーキを覗き込む。
つやっつやの真っ赤な苺と生クリームでデコレーションされた王道のショートケーキ。
ふわふわとしつつも弾力のある生地をキャラメルクリームで飾ったシフォンケーキ。
シルクのような生地をドレスのように幾重にも重ねたミルクレープ。
シンプルながらも綺麗な焼き目が美しいベイクドチーズケーキ。

黒々としたチョコレートがたっぷりの魅惑のデビルズケーキ。
見れば見るほど、どれにするか悩んでしまうのは、世の女性共通の話題だろう。
レジの客が一人、また一人と前に進むのに合わせて、私も一歩前進する。
レジでオーダーするギリギリまで葛藤し、私はようやくオーダーを決めたのだった。




「さすがに、ケーキ3つは買いすぎたかしら」

トレイの上に乗ったケーキとカプチーノを眺め、思わず呟く。
ちょっと待たせすぎたからと、お詫びの意味も込めてイヌ君と分けようと奮発をしてしまった。
だが、それなら2個でも良かったのではないかと、ちょっとだけ後悔する。
しかしトレイの上のケーキを見て、仕方がないではないかと自分自身に言い訳めいた言葉をかける。
オーダーギリギリまで悩んだ結果、どうしても候補を2つに絞れなかったのだ。
お買い物で一杯カロリーも消費しただろうし、これくらいのご褒美はいいだろうと自分を納得させ、足元に気を付けながらイヌ君が待つ席に向かう。

「あら?」

席を立つ夫婦とすれ違いながら、あと少しで目的の席に着けるというのに、イヌ君の姿が見つからない。
正確には彼の声が聞こえるのに、姿だけ見えないのだ。
理由は簡単だ。
私の視界をふさぐように、2人の女の子が立っていたのだ。

「じゃあ、この前の道をまっすぐ行けばいいんですね」
「あぁ。それで2つ目の信号を右に行けば、目的のお店が左手にあるから」

愛用のタブレット端末で説明をしていたらしく、2人の女の子は、それを覗き込むようにイヌ君に顔を近づけている。
正直、その態度がある種のわざとらしさを演出していた。

「ありがとうございます。凄くわかりやすかったです。あの、もしよろしかったら…」

次の言葉が紡がれる直前、私は反対側を回り、彼女たちの反対側に立っていた。
そして手に持っていたトレイをタブレットを押しのけるようにして、テーブルの上に置く。

「待たせちゃって、ごめんなさい」

私の突然の登場に、彼女たちの表情が一瞬強張った。
当然と言えば、当然だろう。
道を聞くという古い手段で、イヌ君をナンパしようとしていたのだ。
それが彼女連れだとわかれば、彼女たちに勝機はない。

「あら、お邪魔だったらしら?」
「いいえ、こちらこそお邪魔してごめんなさい」
「丁寧に教えてくれて、ありがとう。じゃあね」

そう言って、負け犬がしっぽを巻いて帰るように、いそいそとカフェを後にした。
残ったのは涼しげな顔でコーヒーを飲むイヌ君と3つのケーキ、カプチーノとご機嫌斜めの私だけ。
でもこの気持ちを言うのは何となく悔しくて、手に提げていた楽譜を椅子の背もたれに立てかけ、椅子に浅く座る。

「で、どのケーキが僕の?」

人が折角、気持ちを落ち着かせようとしていたというのに、この駄犬は。
簡単に人の神経を逆なでする。
きっと確信犯なのだろう。
そう思うと更にイライラが膨れ上がる。
私はお行儀が悪いのを承知で、手元のフォーク掴み、デビルズケーキにつき立てた。
位置的には、イヌ君の目の前のケーキだ。
黒いチョコの山に、銀色のフォークが深く沈んでいる。

「それも全て私のものだから、イヌ君の分はないわよ!」

ありったけの不機嫌さを表情に出してみれば、イヌ君は目を丸め、きょとんとしている。
その表情があまりにもこの場に不似合で、さらに私は居心地が悪くなる。
イヌ君はしばらく無言で思案をし、ようやく口を開いた。

「蛇崩、間違っていたら、そう言ってほしいんだけど、いいかな」
「なによ」
「もしかして君は嫉妬しているのかい?さっきの彼女たちに」

あぁ、これだから男って奴は!
なんでわざわざ、わかりきった事を聞き返すのだろうか。
そんな事も考えられられないほど、愚かなんだろうか。

「そうだったら、なんだって言うのよ」
「君にしては意外だと思ってね」

軽くメガネを直し、私の事を見返す瞳に、きつく視線を送る。
さっきの事も不満だが、今は目の前にいるイヌ君が何を思っているのか、今一つ理解できずいることが不満だ。
視線だけで、言葉の続きを促しているのを理解したのか、イヌ君が言葉を続ける。

「データを取るまでもない。君が彼女たちに嫉妬する事なんて、これっぽっちも無いと言っているんだよ。例えばさっきの事を例にあげてみよう。彼女たちが一般的に、可愛いとか、ちやほやされるタイプだったと仮定しよう。あくまでもこれは仮定の話だから、事実と異なっていると思っていても、それはそれで構わない。さて、その場合、一般的に男性は声をかけられれば嬉しいというのが通常だろうね」
「なーんで、男って生き物は見かけに騙されて、自惚れられるのかしらね」
「まぁ、人の印象とかは視覚情報で決められるからね。全て見た目で決められるわけじゃないけど、あるに越したことはないと思うよ。それは君自身も証明しているじゃないか」

確かに、それについては自覚がある。
環境もあったのだとは思う。
幼い頃より、可愛いと言われて、親衛隊が結成されるのは普通の事だと思っていた。
決して、幼馴染の皐月のように美人ではない。
だが、自分の容姿が、人の目を引くものであることは重々理解しているつもりだ。
勿論、それを活かす術も身に着けている。
だからこそ、見た目で騙される単純な人間が嫌いだと思っているのも事実だった。

「話を戻そう。君が主張するように、男は見た目で騙される生き物かもしれない。だがその前に、基本的な前提条件が間違っている場合、これは立証されない」
「何が言いたいのよ」
「つまり、僕が言いたいのは、僕の場合、君以外の人間は基本的に眼中にないから、どんな女性に声をかけられても、アプローチを受けても、君が嫉妬したり、やきもちをやく必要は全くないということなんだよ。僕にとっては彼女たちはその他大勢の存在でしかない。一方君は、僕にとって価値のある存在だ。僕は今までそう思っていたからし、そう接していたつもりだ。だから君が、彼女たちにそんな気持ちを抱くなんて思ってもいなかったんだよ」

真っ直ぐにこちらを見ながら、並べられる言葉に、間抜けにも開きかけていた口を一度きつく結び、わざとらしくコホンと咳をした。

「…ねぇ、イヌ君。自分で言ってて、恥ずかしくならないの、それ」
「恥ずかしいも何も、それが事実なんだから、仕方がないだろう。それとも蛇崩、君は…」
「あー、もうわかったわ。それ以上言わなくていいから」

普段、あまり言われないストレートな物言いに、思わず言葉を遮る。
顔が熱い。
こんな事、普段はお得意の言葉の応酬で軽くかわすのに、どうしたことだろうか。
正直、上手いかわし方が思いつかない。
恨めしい気持ちでテーブルの上を見つめていると、ほとんど手の付けられていないケーキが映った。

「…ケーキ」
「ケーキがどうかしたのかい?」
「一人で食べるのは多いから、3分の1ずつあげるわ。感謝しなさいよ」

そう言って、ケーキの乗ったお皿を少し彼の方に送る。
さっき、彼に上げる分は無いといった手前、半分こというのは気が引けたのだ。

「あぁ、嬉しいね。ありがたく、もらうよ」

そう言って、イヌ君は満足そうにデビルズケーキにフォークを伸ばし、大きく切り取って口へと運ぶ。
これも全て彼の計算のうちなのだろう。
全く、憎たらしいたら、ありゃしない。

だが、それも含めて、好きになってしまったのだから仕方がない。
イヌ君の全てが私のものとは言えないが、いつか言えたらいいなと思う。
イヌ君に負けじと、ケーキにフォークを伸ばし、ショートケーキを口に運ぶ。
苺の甘酸っぱさに、青春だなと思いつつ、私は甘いケーキの味を堪能することにした。



END





モドル