バナナジュース
「う~ん、疲れましたね《

背伸びをしつつ、アズラエルは呟いた。
3日前から、デスクの上にたまっていた仕事を全て片付ける為、ずっとここにこもっていたのだから当然と言えば当然だ。
仮眠と食事、それからたまに気分転換に散歩をした以外、まさに缶詰状態。
どうやらアズラエルも、あまり若いわけでは無く、これには少し堪えたようだ。
体の節々が痛いのか、体をほぐす様にストレッチをして、手足を伸ばしている。

「取りあえず、眠気覚ましにコーヒーでも飲みに行きますかね《

そう言うと、アズラエルは部屋を後にした。





アズラエルが食堂へ行くと、そこにはオルガとシャニの姿があった。
どうやら偏食気味のシャニに対して、オルガが注意をしているらしく、ブツブツと小言を言っている。

「君達は、本当に元気ですね《

そう言って、アズラエルはカウンターに向かわずにシャニの脇にアズラエルは腰を下ろした。ちらっとシャニはアズラエルの事を見たが、特に何も言わない。

「あぁ?好きで騒いでるんじゃねぇよ《

一方、機嫌悪そうにオルガは言った。

おや、そうなんですか。僕はてっきり、好きで騒いでいるのだと思ったんですけどね。

そう心の中で思うが、それを口に出そうものなら短気のオルガがキレ出す事を知っているので、あえて口に出さずに、研究員が運んできたコーヒーに口をつける。
ちらっと、トレーに乗った物を見てみると、今日のメニューがうかがい知れる。
メインは鮭のムニエルにほうれん草のソテー、もやしとニンジンの温野菜サラダ。それにパンとミルク。
栄養バランスとエネルギーを計算されて作られた食事だ。
多分、シャニが拒んでいるのは温野菜サラダだろうとアズラエルは思いつつ、先ほどから感じていた違和感の原因に気づいた。

「そう言えば、クロトはどうしたんです?一緒じゃないんですか?《

いつもであれば、ここにクロトが加わって、もう少しうるさいはずなのだ。

「おっさん、知らないの?《

ちらっとアズラエルの顔を見て、意外そうにシャニがぼそっと呟いた。

「何がです?《
「クロトの奴、今、動けねぇんだよ《
「動けない?《

オルガの言葉に、アズラエルは自分がお仕置きを指示したか考えたが、特に思い当たる事は無い。
そもそもこの3日間、自室から出ていないアズラエルが、生体CPUである彼らの様子など見ていないのだから、当然である。
"おかしいですね"と呟くアズラエルに、珍しくシャニが言葉を付け足す。

「なんか、胃が食べ物を受け付けないんだって《
「だから動けないと?《
「そうらしいよ《
「食中毒、ですか?《

そうは言ってみるものの、一人だけ食中毒などあるだろうかと、アズラエルは更に首を傾げる事になった。

「いや、それとも違うみたいだぜ。むしろ風邪に近いんじゃねぇか。少し熱っぽかったし《
「風邪、ですか…《

そう言われて、アズラエルも紊得する。
一口に風邪と言っても、頭痛・熱・吐き気・腹痛などと、その症状は様々である。
きっと、今回のクロトは腹痛からくる風邪のウイルスに感染したのだろうと、アズラエルは考えたのだ。

「そうですか。僕は少し様子でも見に行きますかね《

一気にコーヒーを飲み干すと、オルガとシャニを一瞥してアズラエルは食堂を出て行った。





コンコン

「クロト、入りますよ《

いくらトップの人間だとは言え、一応断りの言葉を言ってアズラエルはドアを開けた。
ベッドを覗くと、そこには普段からは想像しにくいほど大人しくしているクロトがいた。
どうやらゲームをする元気も無いらしく、ゲーム機も枕元においてあるだけだ。
クロトはアズラエルをダルそうに一瞥し、ぷいっと壁の方を向いた。
そんなクロトの反応に、アズラエルは"やれやれ"と言いながら、クロトの寝ているベッドに腰を下ろした。
安っぽいパイプベッドが、ぎしっと言う。

「ちょっと、失礼しますよ《

そう言ってクロトの額に手を添えと、クロトは気持ちよさそうに目を閉じた。
少し低めのアズラエルの体温が、クロトの体温を奪う。

「確かに、ちょっと熱っぽいですね《

手で測っただけだから正確とは言えないが、少々微熱っぽい。
どうやら一度上がって熱が、少し下がったと言うところであろう。
栄養は点滴で摂取しているらしく、無駄な肉が付いていない腕には、点滴の針が刺さっている。しかし、いくら点滴で栄養を摂取しているとは言え、普段血色のよい顔色も、今日ばかりはシャニのように優れない。
壁の方を向いているクロトに、アズラエルはなるべく優しく話しかけた。

「食欲が無いそうですね《
「えぇ《

てっきりだんまりを続けると思っていたが、意外にもクロトはしっかりとした声で、アズラエルの問いに答えた。

「お水は、飲めるんですか?《
「あまり、冷たくなければ…《

食欲が無い理由は、ウイルスによる腹痛なのだから、さすがにそこまで冷たいものを受け付けないのは、アズラエルの予想内だった。

「なら、オレンジジュースはどうです?《

フルーツに入っているビタミンCは、風邪などひくと真っ先に失われる栄養素である。

「一応、少しは飲めたけど《
「そうですか《

軽い質問をして、取りあえず今のクロトは、水分であれば摂取可能だという事が分かった。
いつまでも点滴で栄養を補給していても、限度は目に見えている。

おや?なんで僕は、こんな事まで気にしているんですかね。

いつもなら大して気に留めない事であったが、今日のアズラエルはそれが気になって仕方なかった。
アズラエルは腰を下ろしていたクロトのベッドから立ち上がると、クロトにきちんと布団を掛けなおし、ドアへと向った。
そんなアズラエルの行動を、クロトの視線が追う。

「戻るの?《

いつものクロトからは考えられないほど弱々しい声に、アズラエルは動きを止める。

「いえ、またすぐに来ますから。安心して下さい《

「別に、心配なんてしてない…《

ぼそっとクロトは呟くと、布団を頭から被った。
そんなクロトの姿を見て、アズラエルは小さく微笑むと部屋を出て行った。





数分後、再びクロトの部屋に戻ってきたアズラエルは小さめのトレーを持っており、その上にはグラスが1つ乗っていた。
ことんっとサイドテーブルにグラスを置くと、アズラエルはクロトが起きるのを手伝う。

「何ですか、コレ《
「バナナジュースです《
「バナナジュース?《

なぜ、バナナジュースなのだろうと、眉間にしわを寄せているクロトに、アズラエルは丁寧に説明をしだした。

「バナナは吸収率のいい食品なんですよ。スポーツ選手なんかにも、直ぐにエネルギーになるので食べている人もいますし。今の君じゃ、そのままじゃ無理だと思ってので、ミキサーでジュースにしたんです。ベースは牛乳ですが、隠し味にヨーグルトも入っています《

そう言われクロトはなぜ、アズラエルが水は飲めるのか、オレンジジュースは?と聞いてきた理由が分かった気がした。
つまり、食事を取る事が出来ない自分の為に、アズラエルはこれを作ってきてくれたのだ。
彼の知っているアズラエルからは、大分違う一面を知り、クロトはなんとも上思議な感覚に襲われた。

「飲んで、いいの?《
「えぇ。その為に作ってきたんですからね《

アズラエルの丁寧な物言いに、クロトは素直にグラスに手を伸ばした。
口をつければ、ひんやりとした液体が喉を通過する。
バナナの柔らかな甘さに、ヨーグルトの酸味が程よくマッチしていた。

「美味しい…《

アズラエルに言うと言うよりは、呟きに近い言葉にアズラエルは嬉しそうに笑った。

「そうですか?それはよかった《

結局、グラスに並々と入っていたバナナジュースは、見事に全て、クロトの胃に紊まったのだった。

「ご馳走様《

グラスをトレーに戻す際、クロトはそっけない声でお礼を言った。

「明日もまた作ってきますから、それまで大人しくしているんですよ《

小さな子どもを相手にしている口調に、いつものクロトであれば嫌味の1つでも言っていただろう。だが、今日は何も言わずに部屋を出て行くアズラエルを見送ったのだった。
それは、たまにはこんな日があっても良いと思ったからだろう。
忙しい日々の、小さな休息として。
それはきっとアズラエルのしてくれた事が、弱った心に沁みた所為であろう。
それが恋という気持ちになるのは、また別の話だが。



END





モドル