あたたかな居場所
喉に魚の小骨が刺さったような、些細な違和感だった。
今までの一連の流れを思い出して見ても、特別なことはなかったと断言出来る。
桃源郷に居を構える駄獣にお灸を添えつつ、2週間前に注文していた商品の受け取りに来ていた。
一部、納品数がずれており、急いで作業をさせるのもいつもの事だ。
やっと出来上がった商品を袋に詰める白澤さんの傍ら、従業員の兎をモフらせてもらいつつ、無意識に言葉が零れた。

「大丈夫ですか」

静かな空間に発せられた言葉は、相手もそうだが、何より自分自身が一番驚いた。
それは蛇口を開いた水道で、水を貯めようとしていたバケツが満杯になり、溢れ、ふちを伝い零れるように、自然に発しられたと言ってもいい。
それくらい無意識だったのだ。
しかし普段から表情が乏しいと言われる為、顔を見てそれを悟られる事はないだろう。
案の定、目の前の男は、特に気にするでもなく、十二分に時間をかけ、言葉の意味を探っていたようだった。
だが、思い当たるものがなかったのか、眉を顰め不愉快そうな顔をした。

「何が」

この問いは最もだと思う。
なぜなら、私自身が"何"を理解していないのだ。

「いえ、私の気のせいでした」

"何"と問われ、具体的に返せるものがなかった。
だからこそ、気のせいだろうと思おうとした。
白澤さんは何か言いたそうにしていたが、一度終わらせた話を蒸し返すことなく、作業を再開した。
その後、約束の品を受け取り、地獄へ戻ったのだった。



そんなことがあった所為だろうか。
ついうっかり、うさぎ漢方 極楽満月に小包を忘れてしまっていた。
個人的な持ち物だったっ為、業務上の情報漏えいの可能性がないだけ、よかったと言えるだろう。
だがそれに気づいたのは夜もよく更けた時刻で、一瞬、明日にしようかとも思ったのだが、気になるときちんと確認するまで安心出来ない性質のであることは己が一番理解している。
結局、夜に地獄を抜け出し、桃源郷へ向うことにしたのだった。

月明かり照らされて、仙桃畑の脇を抜けていく。
むせかえすような桃の香りも、夜の気温ゆえか、かすかに香るのみで、頬にあたる風が心地よい。
既に店の明かりは消えているが、裏が住居になっている為、大丈夫だろうと店に近づく。
手をかけようと思っていたところで、ガタリと戸が動く音がし、とっさに店の脇に体を隠していた。
店から出てきたのは案の定、白澤さんで、こんな日の落ちた時間に向かう場所は限られている。
いつもの浮かれた顔で夜の衆合地獄へ向かうのかと思えば、足が向いたのは、己が来た道とは真逆の方向で、はてと首を傾げる。
静かに歩いていく、その後ろ姿がいつもより小さく見え、こっそり後を追うことにした。



15分ほど歩いただろうか。
仙桃畑を抜けると、白澤さんは見慣れない洞窟へと入って行った。
ここまで来て、後を追うべきか、踵を返すべきかと考える。
自分のテリトリーである地獄ならともかく、桃源郷はあちらの方がテリトリーと言えるだろう。
退路は限られ、相手に気づかれる可能性が高い場所で、尾行をする必要があるのか天秤にかけてみる。
少しだけ分が悪い気もするが、ここで引くのも癪な気がして、足音に気を付けて進む。

どうやらヒカリゴケが自生しているらしく、奥がほんのりと明るい。
カーブになっているので、どうなっているのかとこっそり奥を覗くと、そこには神獣姿の白澤さんがいた。
丸くなっている為、一見、白い毛玉があるように見える。
なんと癒し空間と思ったが、当の白澤さんの顔には、苦悶の表情が広がっており、どうやら調子が悪いようだ。
その姿を見て、昼間の謎が一瞬に解けた気がした。

「なんで、一角獣がここにいるんだよ」

人でいうところの両目は閉じられているのだが、ぎょろりと額の第三の目が私の姿を捉えた。

「偶然ですよ。忘れ物があってお店に向かっていたら、ちょうど貴方が出てきたので、後をつけさせてもらいました」
「良い性格してるな」
「だから、大丈夫かと聞いたじゃないですか」

先ほど解明した答えを告げると、白澤さんはしばらく無言でいた後、納得したように頷いた。

「昼間のあれか」
「えぇ。気のせいかと思ったのですが、やはり体調が優れなかったんですね」

そういって、軽く頭を撫でる。
初めて触れる毛は、もっと綿毛のように心もとないのかと思ったが、しっかりとした弾力を持っており、それでいて絹のような滑らかさを持ち合わせていた。
文句の1つでも返ってくるかと思えば、それはなく、代わりに呼吸に合わせて体が静かに上下している。

「人型でいられないほど、辛いのですか」

長い付き合いになるが、こうして神獣の姿で言葉を交わすことは殆どなかったと記憶している。
以前、酔っ払って大王を背に乗せて飛んでいた事もあるが、ああいう時がまれなのだ。
神獣の姿が本来の姿である以上、そういった可能性もあるのかもしれないと、質問を投げかけると、静かに首を振られた。

「いや、そういうわけじゃない。こういう時はこっちの姿の方が、落ち着くんだよ」

そう答えると、どこか居心地が悪かったのか、少し体を動かし、体が落ち着く場所を探す動作をしている。
その動作は動物的だ。
犬や猫など、動物の多くは体を丸めて眠る。
首の長いキリンでさえ、首を折り返り、体の上に乗せて眠ると聞く。
余談だが、天敵がいない竹林で育ったパンダは、人のように寝るが、それはそれで愛嬌があると思う。

そして人は寝ている時の体制で、深層心理がわかると聞く。
仰向け、うつ伏せ、横向き。
大きく分けて3つあるが、横向きで丸くなって眠る姿は、母親のおなかの中にいる胎児を連想させる。
心理的に甘えたかったり、癒しを求めていたりすると、どこかで聞いたことがある。
体が弱ると心も弱るだろうか。
意識せず、目の前の獣が愛を求めているような気がした。

「この場所の事、他言するなよ」

弱っているところを見られたなくないのか、それともお気に入りの場所だから他の者に知られたくないのか。
本人でないので、それはわからないが、私にもそういう場所があるのを思い出し、静かに頷く。

「えぇ、わかってますよ。その代わりと言ってはなんですが…」

恩を着せるように対価を求めようとは思わない。
だが、このまま一人残して帰るのは、なんとなく後ろ髪をひかれるような気がして、もっともらしい理由を口にした。

「ここで体を休めてもいいですか。もう地獄に帰るのも面倒なので」
「勝手にしろ」

口ではそっけないものの、本当に追い出す気が無いらしく、額の目も静かに閉じられた。
桃源郷は夜であっても気候が良い。
ましてや少し奥まった洞窟内の空気は、昼間のそれと変わらない。
少し体を痛めるだろうが、そのまま地面に寝ても平気だろう。
だが、滅多に見ることのない、この白い獣の毛を前に、そんな無粋なことをする意味はない。

「こんなところに、良い羽毛布団が」

そう言って、ふわふわのしっぽに手を伸ばすが、持ち上げる前に持ち主の意図でふわりと遠のく。
しかし次の瞬間、私の体を包み込むように巻きつけ、更に体を丸める。

「僕のは羽毛よりも、もっと性能いいんだからな」

予想外に好条件となった寝床に、人知れず気分を良くした。
今なら鼻歌だって歌えるかもしれない。
白澤さんの白い体に体を預ければ、規則正しく胸が上下するのに合わせ、ゆっくり波打っている。
これではどちらが癒されているのかわかったもんじゃないですね。

手元のしっぽをゆっくりと撫でていると、いつの間にか静かな寝息が聞こえ始め、白澤さんが夢の中へ旅立った事を理解した。
それを好機と、しっぽの毛を一房掴み、静かに口づける。
あたたかな空気に、心の中まで温められた事を実感し、静かに目を閉じた。

これで少しは彼の孤独が癒されればいいと思ったのは、私のエゴかもしれない。
だが同時に、自惚れてもいいのではないかと思うほど、穏やかな寝顔すぐ傍にがあったのも事実だった。



END





モドル