どこかで誰かが泣いている
あと30分ほどで今日の業務時間が終わろうとした頃、鬼灯は執務室で書類の束に判を押していた。
お昼前まで、机一杯を占領していた書類は、鬼灯のまさに鬼の形相で進められた作業により、終焉を迎えようとしていた。
最後の1枚を押し終え、書類の角を整えていると、目の端に映るカレンダーを見て、注文していた薬の受け取りをしていなかった事に気付く。
重要度が高いから、期日を必ず守れと念を押したのに、その依頼をしていた自分が忘れるのはいただけない。
さすがにこの時間に他の者に受け取りを依頼するのも気が引け、書類を同僚の獄卒に託し、机の上を軽く片付けて席を立つ。

「鬼灯君、上がるの?」
「いえ、桃源郷に行ってきます。薬の受け取りを忘れてましたので」

うっかりしてましたと、愛嬌のあるポーズを取るが、真顔の為その効果は半分も発揮されてはいない。
それでも"可愛い部下"の一言で片づけられてしまう閻魔大王に、今日はそのまま上がる事を告げ、鬼灯は桃源郷へと向かった。

牛頭と馬頭に軽く挨拶をし、桃源郷に足を踏み入れると、珍しく雨が降っていた。
仙桃農園が喜びそうだと思いつつ、じっと空を見上げる。
雨はまだ本降りではなく、振り出し始めの小雨と言ったところだろう。
傘を借りるほどではないと、鬼灯は足早に目的の店に向かった。

小雨といえど、それをずっと浴び続ければ、服は水けを帯びるもので、鬼灯が目的のお店、うさぎ漢方極楽満月に着いた頃には、立派な濡れ鼠になっていた。
いつもは新鮮な空気を取り込んでいる窓も閉じており、僅かに室内の灯が隙間からこぼれるだけとなっている。
もしかすると今日は早めに店を閉めているのかもしれない。
静かなお店の様子に、いつもは問答無用に蹴り飛ばすドアに手をかける。

「御免下さい。白澤さん、いえ白豚さんはいますか」
「なんでわざわざ言い直すんだよ」

意外にも、店内には白澤しかおらず、その白澤も生薬の在庫チェックをしていた。
だが、髪から水を滴らせる鬼灯をその瞳に映すや否や、ガタンッと椅子が倒れるのも厭わず、席を立った。

「お前、ずぶぬれじゃん。なんで、傘さしてこないんだよ」

そう言って、急いで奥の部屋に引っ込んだかと思うと、次に現れた時には、白いふかふかのバスタオルを持って鬼灯の傍まで近寄る。 ふわりという形容詞がぴったりなバスタオルを頭の上から被せると、白澤はガシガシと無遠慮に鬼灯の頭を拭きだす。
あらかた髪の毛の水分を奪うと、バスタオルを肩に下ろす。
ぽんぽんぽんと叩くように衣類の水分をタオルへ移すところまで来て、白澤が舌打ちをする。

「あぁ、きりがない。特別に裏の風呂貸してやるから、体温めてこい。そのまま風邪とかひいても、困るだろ」
「貴方と違って、そんな軟な作りはしてませんよ」
「そういう問題じゃない。いいから、つべこべ言うな」

そう言って、背中を押して、裏の風呂へと誘導する。
店の裏に温泉を囲った程度の風呂があるのは鬼灯も知っている。
だが、外は今まさに雨が降っている最中で、そんな中、風呂に入って温まっても、天然の露天風呂では意味がないだろうと、鬼灯は心の中で思う。
しかし、背中をぐいぐいと押している白澤に、それを言うのも躊躇われ、言われるがまま風呂場まで移動することにした。

「替えの服は用意するから、ひとまず脱いだものはこれに入れておいて」

そう言って、籠とタオルを手渡される。
先ほどまで頭からかぶっていたバスタオルを回収し、白澤は店の中へと戻って行った。
そして残された鬼灯はと言うと、珍しい光景に興味深そうに周囲を見渡した。
未だ、雨は降っている。
それは間違いない。
だが、柵で囲われた風呂の周囲だけ、透明なドームで覆われているように、雨がはじかれていく。
手を伸ばしてみるが、特にガラスなどがあるわけではない。
結界のようなものだろうか。
普段、術を使うセンスが薄いと思っていたが、意外な仕掛けに鬼灯は素直に関心した。
そして本来の目的を思い出し、湯あみを始めた。



「お先に頂きました。思いのほか、良い湯でした」

ほかほかと頭から湯気が出そうなほど血色の好い顔で戻ってきた鬼灯に、白澤は自慢げに笑う。
その体には、白澤が出した長袍(チャンパオ)を身に着けている。
同じ身長とはいえ、体格差が出るため、少しゆったりとしたデザインの服を選んでくれたらしい。
日本の藍とは違う、紺の本体に白い袖。
ズボンも共布で出来ており、さらりとした肌触りが心地よい。

台所で作業をしている白澤を脇を抜け、椅子に腰かける。
白澤は夕飯の準備をしているらしく、時々鍋の中身を混ぜたり、調味料を足したりしている。
その傍ら、慣れた手つきで出されたのは、濃い茶色のお茶だ。
風呂上がりの一杯と言われて、湯呑に手を伸ばす。
独特の香りを嗅ぎ、中身を理解する。

「プーアル茶ですね」
「そう。体を温めるようにね」

背後で作業をしつつ答える白澤に、随分と今日は甲斐甲斐しいものだと心の中でつぶやく。
ここまでされると、普段は文字通りには受け取らない好意を、素直に受けるしかないと諦める。
そして、ゆっくりと味わうように口を付けた。

「御馳走様でした」
「お粗末様」

空になった湯呑を流しに移動させ、そのまま洗う。
白澤が気付いた時には、すでに湯呑は洗い終わっており、布巾で水けを拭きとられていた。

「ホストはこっちなんだから、そんな事しなくていいのに」
「いえ、色々とお世話になりっぱなしなのは、しゃくですから」
「本当に素直じゃないね、オマエ」
「貴方ほどじゃないですよ」

いつもよりも言葉が穏やかなのは、今回の白澤の行為に感謝しているからだ。
風邪を引く事はないだろうが、さすがに濡れたままいるのは気分もよくなかっただろう。
温かい風呂に入り、体もさっぱりし、気持ちも良い。
最近、仕事が忙しかったので、良いリフレッシュになったと言える。
お風呂と言えばと、鬼灯が思い出したように問いかける。

「そう言えば、裏のお風呂、いいですね。雨が降っていても入れるのは、意外でした」
「あぁ、あれね。僕も気に入ってるんだ。どうも、雨って苦手でね」

普段であれば、気づかない様な変化だった。
"苦手"と言った時、僅かだが声に違和感を感じた。
それが気になり、鬼灯は言葉を続ける。

「何か理由でもあるんですか」
「理由って言うか、誰かがどこかで泣いているような気がして、ダメなんだ」

そう呟く白澤の方が泣きそうだと思ったのは、己の思い違いだろうか。
人が亡くなった際、葬儀の日などに雨が降るのは、涙雨と言われている。
故人を偲び、 悲しみの涙が化けると言うものだ。
逆に人が流す涙を、空知らぬ雨と言ったりもする。
そう考えると、人は昔から雨と涙を重ねてみているのかもしれない。

泣けない人の代わりに空が泣く。
そう思うと、気が滅入るのだと語る男が、無性に儚い物に見えた。

そう思った瞬間、鬼灯は後ろから腕を回し、白澤を抱きしめていた。
身長差がない男同士がくっつくのは、少し滑稽な気もしたが、そうしなければいけない気がしたのだ。

「何してんの、オマエ」
「寒いんですよ。ちょっと人間湯たんぽになりなさい」

さきほどまで温かな湯につかり、体を温めるお茶を口にして、どの口が言うのか。
いつもならもっと別の言葉を返せたはずだ。
だが、白澤はそんな事はせず、回された鬼灯の手に、己の手を重ねる。

「嘘つき」
「貴方ほどではないですよ」

悲しいや寂しいという言葉を口に出せない嘘つきさん。
そう耳元で囁くと、少しだけ白澤の体が震えた気がした。
泣いたのだろうかと思い、顔を覗き込もうとしたが、それも野暮な気がして鬼灯はそのまま右手を白澤の頭上へと移動させる。
そして普段うさぎを撫でるような動作で、静かに白澤の頭を撫でる。
さすがにこれはやり過ぎかと思ったが、抗議の声が上がらないので肯定と判断し、鬼灯は白澤を撫で続けた。



しばらくして、思い出したように白澤が口を開く。

「夕飯、食べてけよ。作りすぎちゃったんだ」
「貴方がどうしてもと言うのであれば、食ってやらんことはない」
「本当に偉そうだな、オマエ」

そうやって笑う白澤の顔には、先ほどまでの儚さは身をひそめ、へらへらと見慣れた顔があった。
外では、まだ雨が降り続いていた。



END





モドル