始まりの予感
「キャラメルラテお待ちのお客様、お待たせしました」

チェーン店のコーヒーショップで、甘い甘い飲み物を頼むサラリーマンは、この世にどれ位いるのだろうか。
疲れきった頭で、そんな答えの出ない事を考えてしまう。
可愛い店員から、キャラメルの甘さが香りたつカップを受け取った。
花金と称される平日最後の日に、1人でコーヒーを飲むのは久しぶりだと思う。
大抵は飲みに行くことが多い。
同僚だったり、取引先だったり、その時々で相手は異なる。
今日とて、誘いの声はあったのだ。
それを明日、予定があるからと嘘をついてまで断ったのは、ただ疲れていたの一言に限る。

1人掛けタイプのソファーイスに腰を下ろす。
仕事の商談ではあまりやらない、深く座り、背もたれに全体重を預ける事にした。
程よく沈むのが、心地よい。
スリーブで熱くないようになったカップを口元に運び、一口飲む。
キャラメルの甘さが、胃に染み渡る。
仕事ではブラックしか飲まないから、なんとなく、変な感じがする。
だが、今は甘い飲み物が飲みたかったのだ。
とにかく疲れていた。
仕事とか、プライベートとか、何がってわけじゃない。
ただ漠然と疲れていた。
疲れた時に甘いものを欲するのは、女の子だけじゃないらしい。

仕事を始めてから身に着け始めた眼鏡を外し、テーブルの上に置く。
右手の親指と人差し指で目の間を指圧し、コリをほぐすと、静かに目を閉じた。
眠いわけではない。
だが、疲れた体を労わるには、それが一番だと思ったのだ。
視界を閉ざせば、心地よい音楽だけが、世界を構成する。
人の会話すら綺麗に拡散され、まるでこの世界から切り離された錯覚すら生まれそうだった。
そんな世界を壊したのは、思いがけない声だった。

「あれ、もしかしてチョロ松?」

それは懐かしい声だった。
学生時代、ずっと隣にあった声。
まるで自分の半身のような存在の声を間違えるはずはない。

「おそ松?」

目を開けて、声のした方を見れば、スーツ姿のおそ松がいた。
大学時代のリクルート全開のスーツではない。
ライトグレーに大きめな幅のストライプ。
Yシャツはシンプルな色に見せかけて、織りの効いた作りのようだ。
ワインレッドのネクタイは、様になっている。
本当にあの頃とは別人のようだ。

「うわー。マジでチョロ松だ。隣空いてる?コーヒー買ったら、行くわ」

こっちの回答など御構い無しに、まくし立てると、そのまま奥のレジに消えていった。
ああいう所は、変わらないのだなと、少しほっとする。

松野おそ松。
僕、松野チョロ松と苗字が同じなうえ、名前も松かぶり。
兄弟?と聞かれたことは、数知れず。
大学に入って、学生課で書類を間違えられて知り合ったのが、縁の始まりだ。
違う学科だったから、共通の基本講座以外、一緒の授業を受けた事はない。
だが校内ですれ違えば、挨拶を交わす中になったのは、早かった気がする。
馬が合ったというのだろう。
そのうち、学食で昼メシを共にするようなった。
二十歳を過ぎた頃には、下宿先のアパートで飲み明かして、講義に遅れた事もあった。
今思い出しても、本当に不思議な関係だったと思う。
実際、同じ課の友達やゼミ仲間からは、前から知り合いなのかと言われるほど仲が良かったと思う。
それこそ、本当に兄弟や親戚なのではないかと疑われたほどだ。

「お隣失礼しまーす」

おそ松の声で、現実に引き戻される。
少し思い出している間に、意識は随分昔に戻っていたらしい。
静かに置かれるトレイには、ブラックコーヒーとチョコレートケーキが乗っている。
それを見て、甘いものには目が無いのを思い出した。

「いやー、すっごい偶然だと思わない。何年ぶり?」
「大学卒業以来だから、5年か」
「マジかー。そんなに経つか」

ごくりとコーヒーに口をつける。
プライベートでもブラックなのは、学生の時と変わらない。
甘いものが無い時は、ミルクを少し。
変なこだわりがあったはずだ。

「おそ松って、この辺りに勤めてるのか?」
「そう。歩いて5分くらいのところね。入社して、半年したら関西の支店に飛ばされてさ。今年、ようやくこっちに戻ってきたところ」
「そうだったんだ」

おそ松が都内の会社に就職していた事は知っていた。
だが、大学卒業以来、交流を絶っていた為、転勤の話は初耳だった。
同じ学科だったら、友人経由で聞けたかもしれないが、学科が違った僕たちは、周囲からの情報は殆ど入らなかったのだ。

「お前は?」
「相変わらず、本社勤務。去年の春に、人事異動で部署が変わったぐらいかな」
「へぇー。今、どこ?」
「人事部」
「うわー、面接とかやっちゃうの」
「さすがに、まだそこまではないよ。1次試験の試験官ぐらいかな。履歴書のチェックとか、教育がメインだよ」
「なるほどね」

頷き返したおそ松は、フォークでケーキを口に運んだ
口の端に、チョコレートが付いている。
まるで小さな子どものようだ。

「口の端、ついてるぞ」
「チョロちゃん、取ってー」
「バカか。てめぇで取れ」

人に甘えきった態度も分からず顕在のようだ。
ぺしりと頭を叩くと、頬を膨らませて拗ねた。

「でも本当に、今日出会えてよかった。もう二度と、会えないかと思ったからさ」

先ほどまでのふざけた声から一転して、静かに告げられる。

「ねぇ、何で連絡先、消したの?」
「さあな。覚えてない」

ごまかすように、少し冷めかけたキャラメルラテを飲む。
飲み込む音が嫌に大きく聞こえる。
視線を手元に落としていても、おそ松の視線を感じる。
それは責められているようで、いたたまれなくなる。
きっとおそ松は5年前の、僕の行動に怒っているのだろう。
いや、違う。
理由もわらず、どうしたらいいのか分からないでいるのだ。
あんなにも仲が良かった僕たちが、大学卒業を期に、音信普通になったのは理由がある。
それは僕がこの手で、自分の連絡先を全て消したからだ。
宅飲みをした時だった。
おそ松が気づく頃には、僕は実家に戻っていて、卒業式でおめでとうの言葉も告げず連絡を絶ったのだった。

「俺さ、何かした?」
「…何もしてない」
「じゃあ、俺のことちゃんと見て言って」

その声は、迷子の子どものように心もとないものだった。
あのおそ松からは想像もつかないほど、小さな声。
すがられているような、それでいて何か期待をされているような声。

「チョロ松。ねぇ、こっち見てくれよ」

根負けした。
そう言い訳するしかない。
覚悟を決めて顔を上げれば、満面の笑みが広がっていた。

「捕まえた」

テーブルを挟んで、伸ばされた手。
重ねられた手が酷く熱を持っているように熱い。
その手にこめられた力は、決して強いものではないのに、その手を払う事は、今の僕には出来そうにない。

「俺もさ、もう子どもじゃないから。だから本気出してお前の事、落としにかかるよ。だから、今度は逃げるなよ」

それはあの時のように、酒が入って口走った言葉とは違う、本音だと感じた。
あの時、おそ松から向けられた好意に、おそ松を失う恐怖が勝った自分。
その結果、僕はおそ松の告白を聞かなかったフリをした。
そしてずっと閉じ込めていた思い出を風化させることにつとめた。
それがどうだ。
5年も絶っているのに、色鮮やかによみがえってくる。
確かに、僕も彼のことが好きだったのだ。
性別とか飛び越えるほど、好きだったのだ。

「その勝負受けてたってやるよ。お前こそ、手を抜くなよ」
「当然。俺、優秀な営業マンだからね。覚悟しとけよ」

5年前の告白を引っ張り出すではなく、ゼロスタートにする事を決めたのは、僕の弱さだ。
だが、おそ松はその意を汲み取ってくれ、受け止めてくれた。
ならば、僕もがんばるしかないだろう。
見えない未来に不安をいただきながら、少しだけ期待してしまう自分に呆れつつ、おそ松に笑い返した。



END





モドル