ズルい人
乗った列車の窓を雨が叩くように降り注ぐのを見て、失敗したと思った。
今日は午後から雨が降る予報だったのだ。
そう言えば、出かける前に見たテレビで、傘を持ってお出かけをしましょうとお天気お姉さんが爽やかに言っていたのだった。
母さんからの頼まれごとで、3駅隣の町までお使いに行った帰りの事だった。
あまりに強かったら、駅に隣接しているコンビニでビニール傘を買えばいいかと思ったが、一瞬、それも躊躇する。
なぜならが、我が家には兄弟が6人もいて、こういう不運のタイミングで傘を買うとあっという間に、玄関を占領してしまうのだ。
それに対し、母さんは良い顔をせず、少し前に不要な傘の購入は控えるようにと兄弟で決めたのだった。
そうなると、家に連絡して迎えに来てもらうしかないだろう。
誰か居てくれればいいが、誰もいなかったりしたら、別の手を考えるしかない。
とにもかくにも、駅で雨の降り具合を確認しないとどうにもならないだろう。
憂鬱な気分で駅の改札を抜け、これからどうするべきか考えようとした時、見慣れた赤いパーカー姿が目に入ってきた。
本来いるはずの姿に驚きつつ、声をかけた。

「おそ松兄さん?」
「よっ、早かったな」
片手をあげて、ひらひらと振る姿はおそ松兄さんに間違いなかった。
まるで待ち合わせをしていたかのように、自然と返された言葉にこっちが約束を忘れていたのではないかと錯覚してしまうほどだった。
だが、今朝家を出た時には、まだおそ松兄さんは寝ており、お使いの話もしていなかったはずだ。そうなると残りの家族に、聞いたのだろう。

「どうしているの?」
「心優しい兄ちゃんが、迎えに来てやったんじゃん」
「なら、どうして傘が一本しかないのさ」

普通に考えると、迎えに来たのなら僕用の傘がもう一本あるはずだ。
だが、おそ松兄さんの手には、自分の分と思われる傘が一本だけしか握られていない。
その事を指摘すると、悪戯が見つかった子供のような顔で、てへっと笑った。

「あれ、ばれちゃった?いやぁさ、競馬で大負けしてさ。ヤケ酒を飲もうにも買えないから、お前の事待ってたんだよ」

隠すでもなく堂々と言ってしまうクズっぷりに手が出ないだけ、褒めてほしいものだと思う。
理由はどうであれ、傘があるのはありがたい事に違いは無い。
運よく雨は少し小ぶりになりつつある。
だが、傘が無いのは辛い程度には降り続いている。
成人男性二人で一本の傘を共有するのはいささか心もとないが、無いよりはましである。
軽くお礼を言って、自宅までの道を歩く。

学生の頃と違い、二人っきりで並んで歩くのも珍しく、少しこそばゆい。
8割がたおそ松兄さんが一方的に話をして、僕はそれにツッコミを入れつつ言葉を返す。
そうやって歩いていると、おそ松兄さんの足がコンビニの前で急に止まった。

「チョロ松、ちょっとコンビニ寄っていい。兄ちゃん冷えちゃった」

そう言って身震いをするおそ松兄さんに、拒否する理由もなく、"いいよ"と頷き返す。

「傘、よろしくな」

そう言って、一方的に渡された傘の柄を握った時だった。
ひやりと氷のような体温に、どきりとする。
それはこの寒空の下、長い間待っていたのではないかと思うほど冷たかった。
何だかんだと言いつつも、おそ松兄さんは長兄なのだ。
一松がエスパーニャンコとケンカした時も、十四松が好きな女の子にフラれた時も、兄さんだけは違った。
きっと僕たちが知らないだけで、今までにもこういう事が何度もあったのだろう。
そう思うと、同い年の兄弟なのに、自分たちの一歩先を歩いている気がして、ひどく寂しい気持ちになるのだ。

灰色の空に、白い息が溶け込む。
吐き出すのは兄への不満ではなく、自分自身の不甲斐なさなのだろう。
白い息に、もう一つため息をつけたし、傘を畳んでコンビニの中に入る。
冬季限定のヒーターのついたドリンクコーナー前まで行き、左から右まで見渡す。
コーヒー、紅茶、日本茶。甘いものだとホットゆず茶、ココア。
コーンスープにコンソメスープも捨てがたい。
無難なところで、お茶かなと思いつつ、2本手にする。
そのままレジに並び、レジ脇の中華まんのースを覗く。
あんまんに"準備中"の文字を見つけ、肉まんとピザまんを頼む。
お財布から小銭を出し終わったタイミングで兄さんがやってきた。

「ゴチになりしゃす」
「そのつもりだよ」
「やりぃ」

にっと歯を見せて笑う姿は、いつまでも少年のように無邪気だ。
変わらない姿に時に文句を言い、呆れるのも当然なのに、それでも時に救われているのだと思う。
コンビニ袋の中からお茶のペットボトルを取り出し、おそ松兄さんの手に握らせる。
そしてその上から自分の両手で包み込む。
やはり自分よりも冷たい体温に、熱が早く移るようにと力を込める。

「チョロ松さん?なになに、熱烈アピール?兄ちゃんモテて困っちゃうな」

ワザと茶化すのは、兄さんの常套手段だ。
それが分かっているからこそ、今日はそれを見過ごしてあげたりしない。

「兄さんはわかりづらいんだよ。建前の裏にきちんとした理由を隠してるから、本当に性質が悪い」
「そう?そんな事ないと思うけどなー」
「そんな事あるよ。おそ松兄さんは昔から狡賢いからね」

逃がさないとの意味を込め、正面から見返せば、ちらりと舌を覗かせて笑い返された。

「あんまし男前すぎると、兄ちゃん惚れちゃうよ?」

そう言って、空いていた片手が上から重ねられ、右手を絡め取られる。
それは世にいう恋人つなぎと呼ばれるもので、兄弟とはいえ妙に恥ずかしい気持ちにさせられる。
顔に熱が集中してくるのが分かる。
何か言わなければと思うのに、その言葉が出てこない。
そうこうしている間に、手を引っ張られ、距離を詰められる。
一瞬、バランスを崩しそうになるが、そのままおそ松兄さんに抱きしめられる形となった。
顔のすぐそばに、よく見知った顔があるはずなのに、まるで知らない誰かに感じられた。
何が起きたのか分からないでいると、楽しそうな声が奏でられた。

「本当はもう惚れてるんだけどね」

冗談とはいえあまりにも非日常な状況に、頭は処理することを放棄したようだった。
耳元でささやかれた言葉に、頭がショートしたのが分かった。
ドクドクと心臓の音が高鳴る。
相手はおそ松兄さんなのに、なぜこんなにも狼狽えてしまうのか分からない。

「それにさ、大切だと思ってるやつの前ではさ、格好つけたいと思うのが男の性だと思わない?」

同意するばいいのか、それともツッコミを入れればいいのか分からず、混乱する。
よくよく考えたら、雨の降る中コンビニの前で、兄弟そろって何やってるんだろうと思うような状況なのに、それすら言葉にならない。
くっついている時間があまりにも長く感じられたが、実際はそれほどでもなかったのかもしれない。
それ位、時間の感覚が曖昧になった時だった。
近くにあったぬくもりがゆっくりと離れていくのを感じた。

「なんちってね。ほら、帰るぞ」

そう言って笑う顔は、いつも通りのおそ松兄さんだった。
傘立てに立てておいた傘に手を伸ばし、もう片手を僕の前に差し出した。
先ほどまでの事を否定しつつ、それでも嘘ではなかったかのような振る舞いに、なぜか腹正しくなった。
自分ひとり取り残されているようで、悔しくもある。
だから、おそ松兄さん同様に気にしてないってふりをすることにした。

「言われなくても帰るよ。中華まん、冷めちゃうじゃん」

実際、それはそれほど重要な事ではないのだが、今の僕にはそれ以外に言い返す言葉が思い浮かばなかった。
おそ松兄さんはその事に気付いているであろうに、何も言わず、楽しそうに笑みを浮かべていたから、勝手に袋の中の中華まんを1つ口に運んだ。
恨めしそうなおそ松兄さんの声は雨音に拡散していった。



END





モドル