初恋とは叶わないものらしい |
---|
いつも無駄に明るいおそ松兄さんの泣き顔を、20年という人生の中で一度だけ見たことがある。 我らがマドンナのトト子ちゃんに彼氏が出来た時の事だった。 皆でガックシと肩を落とす中、"あれだけ可愛い子なんだから、彼氏の一人や二人、出来たって当然だよな"って笑って僕たちを励ましの声をかけていたおそ松兄さん。 その笑顔の裏で、一番ショックを受けていたのは、おそ松兄さんだった。 皆が寝静まった夜遅く、ふと目が覚めると、隣で寝ている兄さんの場所が、ぽっかり空いていた。 気になって静かに部屋を出てみたら、居間の扉があいていて、すすり泣く声が響いていた。 こっそり覗き込むとおそ松兄さんは泣いていて、その横顔が妙に綺麗だったのを覚えている。 いまいち収穫のないハロワから帰宅すると、母さんと一松、それから十四松の3人が連れだって、出かける所に遭遇した。 そう言えば、先日、一日母さんに付き合う手伝いを頼まれてじゃんけんをしたのだった。 どうやら今日がその日だったらしい。 「あら、チョロ松、良いところに戻ってきてくれたわ」 「なあに、母さん」 「留守番を頼もうと思ったおそ松の姿が見えないのよ。念のため、母さんが鍵を一本持っていくから、よろしく頼むわよ」 「うん、わかった。いってらっしゃい」 「いってきマッスル!」 ブンブンと手を振る十四松に手を振りかえし、家に上がる。 珍しく静かな室内に、トド松とカラ松も朝から出かけている事を思い出す。 たまには一人っきりというのも良いものだと思いつつ、居間の中央に置かれたちゃぶ台に、先ほど貰ってきた求人広告を並べる。 それをしばらく眺めていたが、自分に向いていると思われる事務職の募集は無く、畳の上に横になる。 働く意思はあるのだが、どうして物事は思った通りに行かないのだろうか。 そんな事を考えていると、次第に眠気が襲ってきた。 どれくらい経っただろうか。 玄関の開く音が耳に届いて、目を覚ました。寝ぼけた目元をこすり、視界を開くとおそ松兄さんが立っていた。 「あれ、チョロ松だけか」 「お帰り。母さんと一松、十四松は一緒に出掛けてるよ。カラ松とトド松も朝から、どこかに行ってる」 「そっか。競馬で少し当たってな。アイス買ってきたんだけど、いるか」 そう言ってちゃぶ台の上に、高級アイスで名高いカップアイスが2つ並べられた。 バニラとストロベリーらしい。 当然、買ってきたおそ松兄さんがバニラを先に選び、残ったストロベリーのカップが、目の前に出された。 「ありがとう。いただきます」 プラスチックのスプーンを手に取り、封を開ける。 少しゆるんだアイスに、するりとスプーンが入っていく。 一口、口に含めば、苺の甘酸っぱさを残し、あっという間に溶けていく。 なんとなく、初恋の味とはこういう物のような気がした。 しばらく二人で静かにアイスを食していたが、ふとおそ松兄さんがこちらをちらちらと見ている事に気づいた。 考えるよりも口にする方が早い兄さんにしては、珍しい行動だと思う。 何?と言葉を促したら、少しだけ言いよどんだ後、観念したように口を開いた。 「お前はあんまし落ち込んでないんだな」 「何が?」 「いや、トト子ちゃんに彼氏が出来たってやつ。今はレイカに夢中だからか?」 「だから、レイカじゃなくて、にゃーちゃんだって。でも、まぁ、そうだね。僕にとってトト子ちゃんも、にゃーちゃんみたいな存在だったんだと思う」 昔から女の子って、柔らかくて、いい匂いがして、強く触れたら傷ついてしまう気がしていた。 こんな事を言うと、トド松あたりに“チョロ松兄さんは、女の子に夢を見すぎだよ”って言われるが、実際に僕にとってはそういう存在なんだと思う。 だから、そういう相手に“恋”をするのは、なんとなく実感がわかなかったと言うのが、正直なところなのかもしれない。 認めてしまえば、それはすんなりと入ってきて、20年生きてきて、初恋すらまだだったのだと気付いた。 それに比べて、夜中にひっそりと涙を流したおそ松兄さんの思いは、もっと純粋なものだったのだろう。 そうでなければ、泣き顔を見て、綺麗だと思う事は無かったと思う。 あの後、妙に心が落ち着かず、物音を立てないように気を付けて布団の中に戻ったが、おそ松兄さんが返ってきてからも、しばらく寝付けなかった。 「おそ松兄さんは、トト子ちゃんの事、本当に好きだったんだね」 「…もしかして、お前、見てたの?」 何も考え無しに言った言葉の真意に気づいたのか、おそ松兄さんが驚いたように聞き返してきた。 その瞬間、自分でもしまったと思い、それが表情に出ていたのだろう。 おそ松兄さんは、バツが悪そうに視線をそらした。 あぁ、僕のバカ。 どうしてこういう時に、トド松みたいに上手くかわせないのだろう。 自分の不器用さを呪いつつ、無言のままでいるのは更にいたたまれず、自分から口を開いた。 「ごめんね、兄さん。盗み見るつもりはなかったんだよ。ちょうどトイレに立ったら、物音が聞こえて、それでね」 どう言葉を紡いでも、出てくる言葉は言い訳にしかならず、正直、格好悪いと思う。 兄さんにこんな顔をさせたいわけじゃないのに。 そう思えば思うほど、考えがまとまらず、頭が一杯いっぱいになる。 そんな僕とは対照的に、おそ松兄さんは少し落ち着いたのか、大きなため息をついた。そして僕に向き合う形で顔を上げた。 「そっか、やっぱり見られてたんだな。格好悪いだろ。男が夜に泣いてるなんてさ」 「そんなこと無いよ。むしろ昼間、あんなに気丈なふるまいをしていておそ松兄さんが、トト子ちゃんの事を思って、涙を流していたのは、格好いいと思うよ」 「ありがとうな、チョロ松。でも違うんだよ。なんて言うかさ、ちょっとした願掛けしてたんだよ。認めたくないって言うか。縋りたいっていうか。それが駄目になって、色々考えてたら、泣けちまってさ。でも、お前に話せて、少しすっきりしたわ。サンキュウ」 そう言って、少し寂しそうに笑うおそ松兄さんに、心が締め付けられる。 そんな顔をさせているのが、トト子ちゃんだと思うと、胸の奥がチリチリと痛みを訴えてくる。なぜ、そんな気持ちが生まれたのか、分からない。 だが、気づいたらその言葉を音にしていた。 「僕なら、そんな顔、させないのにな」 「何か言ったか、チョロ松」 「えっ、何も。独り言だよ」 意識の外から漏れた言葉に、今度は自然に装ってごまかす。 なんだ、僕だって上手くごまかすことが出来るのだと、変なところで嬉しくなる。 おそ松兄さんは不思議な顔をしたが、直ぐに気にするのを止めたらしい。 「ちょっと昼寝するわ。うるさくするなよ」 「十四松じゃないだから、静かにしてるよ」 先ほどの僕のようにごろりと横になったおそ松兄さんを横目に、改めて自覚した気持ちを自問する。 多分、これが“恋”というものなのだろう。 そう答えを出すのに、時間はかからなかった。 家族で、同い年の兄弟で、兄である彼に恋をするなんて、誰が予想できたであろうか。 だが、何度考え直してみても、それを否定する要素はなく、素直に認めるしかないと思った。 松野チョロ松、20歳。 兄の失恋を目の当たりにして、初めて自覚した初恋だった。 先ほど食べたストロベリーアイスのように甘酸っぱくて綺麗なものではなく、ドロドロとぐずぐずになった果実のような感情。 それを口にすることなど当然出来るわけもなく、初恋を自覚した日に、この恋が叶わない事を理解した。 「おそ松兄さんと兄弟でよかった」 一生一緒にいる事は叶わないとしても、一生繋がりのある関係であることに安堵し、僕は目元に滲んだ涙をそっと拭った。 |
END |