溺れる魚
なぜだかわからないが、夢を見ているのだと思った。
上から差し込む光が、きらきらと輝いている。
視界はクリアなのに、なぜか揺らめいて、水の中にいるのだと理解した。
目の前を黄色、瑠璃、朱と色鮮やかな魚たちが泳いでいる。
そして足元には、さまざまな形の綺麗なサンゴ礁が広がっている。
いや、足元とは言えないかもしれない。
なぜなら、私の足は、人間のそれではなく、魚のしっぽによく似た形になっていたからだ。
その時改めて自分の姿を見て、人魚になっているのだと気付いた。
いつも2つに結んでいる髪の毛は、結ばれておらず、ひらひらと水になびいている。
2本の腕は、すらっと伸び、手袋も身に着けていない。
身にまとっているものは、膝上丈のオフホワイトのキャミワンピース。
その裾から、透き通るようなひれが、しなやかに覗いている。
水をけるように、ひれを動かせば、初めから泳ぎ方を知っていたように、水の中を自由自在に移動できる。
面白い!
それが自然な感想だった。
上下左右に、時にバック転するように円を描いて、水中を泳ぐ。
小さな魚の群れがまるで、ダンスを誘うように、呼応する。
水の中にも音があるのだと、改めて気づいた。
さまざまな生き物の声がする。
初めての経験に心を躍らし、私は水の中の世界を堪能した。



どれくらい時間が過ぎただろうか。
急に、呼吸が苦しくなった。
口の端から空気の泡が漏れる。
いくつもの空気の塊が水面へ吸い込まれるように、昇っていく。
なぜ?
人魚の私が、水の中で呼吸できなくなるなんて、どうして?
パニックになり、さらに苦しくなる。
胸を押さえるように、体を丸めると、さきほどまであったひれがなくなっていた。
いや、人間の足に変わっていたのだ。
その時、私はようやく自分が置かれている状況を理解した。
人魚ではなく、人間になった私が、水の中で呼吸をすることなど、できるはずがないのだ。
急に頭が冷え、酸素を求め、上へ上へと足をばたつかせ上る。
そしてやっと水面にたどり着こうとした時だった。
伸ばしていた腕を、別の誰かの手にぐっと掴まれたのだ。
未だ水中にいる私に、水の上にいる誰かの顔など、確かめることなどできない。
それでも、その感覚に安堵を覚えた時だった。



ぱっと目が覚めた。
先ほどまで、夢の世界にいたはずなのに、どんな夢を見ていたのか全く思い出せない。
何か大切なことを忘れてきたみたいで、気持ちが悪い。

「なんだったんだろう」

いくら考えても、一度消えてしまった夢の内容など、思い出せるわけもない。

私は夢の足跡を追いかけるのを止め、小さく息を吐いた。
時計を見ると、ベッドに入ってから1時間程度しかたっていない。
まだ夜中だというのに、再度ベッドに横になって、眠れる気もしない。
この感覚は覚えがある。
ママが夜に仕事に行く時に味わった感覚に似ている。
一人でお留守番を出来る年齢だったにも関わらず、時々酷く寂しさを感じる時があった。
さすがに仕事に行かないでなんて、我がままを言うことはしなかった。
だが何かを感じ取ったのか、そういう時のママは、ギュッと私の体を抱きしめてから出かけて行ったものだ。
ここにはママはいない。
同居人はパートナーのソウルだ。
さすがにソウルとて、この時間に出かけるほど常識がないわけではない。
きっと隣の部屋で眠りについている頃だろう。
そう頭では理解していても、なぜか心がそわそわする。
もし彼がいなかったら、そんな不安が心を占めるのだ。
何度か考えたあげく、私はベッドから降り、廊下へと出た。
自室のすぐ脇にあるドアは、ソウルの部屋のものだ。
少しためらったものの、コンコンコンとドアを3回ノックする。

「ソウル、起きてる?」

中から何も反応はない。
再度悩むものの、ここまできたら納得するまで進んでしまえと勢いでドアノブに手をかける。

「ソウル、入るよ」

了承を得ないまま、部屋に入るのは少し忍びない気もしたが、当の本人が起きないのが悪いのだと勝手に決め付ける。
案の定、ソウルはベッドの上で寝ていた。
こちらに背を向けている為、ベッドの手前部分が少し空いていた。
それを見て、子供みたいだが一緒に寝たいと思ってしまった。
ぎしっとスプリングがきしむ音に、まるで夜這いみたいだなと一人苦笑しつつ、ソウルのベッドに上がる。
世界を拒絶しているように向けられたソウルの背に、そっと手を添えた。
ソウルの体温が、添えた手から伝わってくる。
これが正面からで胸元に手を添えていたら、心臓の鼓動が聞こえるところだが、それも敵わない。
少しだけ寂しいと感じてしまった。
そうだ、寂しいのだ。
それを認めてしまうと苦しいから、わざと気付かないふりをしていた感情。
一度でも認めてしまうと、同時に私自身がとても弱い存在だと認めてしまう気がして、いつも気付かないふりをしてきた。
ほんの少しだけ、視界がにじみそうになる。
そんな時だった。

「なぁ、マカさんよ。お前、自分がなにしているのか分かってる?」

寝てると思っていたソウルの声が聞こえ、少し体が強張る。

「起きてたの?」
「お前が部屋に入ってくるあたりからな」
「それなら、声かけてくれればよかったのに」

寝起きで頭がよくまわってなかったんだよと、あくびをかみ殺しながら返す言葉に、割と眠りが浅いのだなと勝手なことを考える。
今何時だよと、枕もとの目覚まし時計に手を伸ばし、心底あきれたように盛大なため息をついた。

「夜中に自ら男の寝床に入り込むのは、優等生らしくないんじゃないか?」
「変にからかわないでよ。別にそういうつもりじゃないんだから」
「じゃあ、どういうつもりだよ」

決して怒っている声ではない。
それでも静かに言われると、ここで心のうちを晒さないと、いけないような気がしてくる。
まるで親に怒られている子どもだ。

「…ちょっと甘えたくなったの」

いたたまれなく、背に添えていた手をギュっと握る。
どうせ背を向けられているのだから、この顔を見られることもない。
だが、いざ口に出してしまい、形を持ってしまったこの気持ちを、消し去る術はなくなってしまった。
もし出来るとしたら、その気持ちを埋めること位だろう。

「よく言えました」

そう言うと、ソウルは体を起こした。
彼の服を握っていた為、少し引っ張られる感覚があったのか、ソウルが苦笑した気がした。

「今日だけだからな」

そうって、ふわりと上掛けを私の体にかけた。
先ほどまで背を向けられていたのに、私と向き合うようにソウルも横になっていた。
行き場を失っていた右手は彼の左手に絡め捕られる。
指先まで熱を帯びたように、熱い。
だけどそれはどこか心地よくもあった。

「…ありがとう、ソウル」
「どういたしまして」

眠りに落ちそうな一瞬、もしかしたら先ほどの夢の続きが見れるんじゃないかと思った。
きっと最後は幸せな結末が見れる予感がしたからだ。
ソウルのぬくもりを感じつつ、夜は更けていった。



END



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補足
溺れるの夢:恋愛に溺れる、母親への思慕、恋人の愛情の不満
溺れるところを誰かに助けられる:人に頼ったり甘えたい気持ち





モドル