珍しい事 |
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熱いような寒いような、相反する感覚が交じり合う不思議な感覚の中、僕はゆっくりと目を開くと、そのまま天井を見上げた。 勿論それは寝巻き姿で、先日天気のいい日に干した布団の中からだ。 別に今日は非番でもなく、また本来であれば仕事をしている時刻。 それでもこうしていまだ布団の中にいるのには理由がある。 僕-護廷十三隊 三番隊の副隊長である吉良イヅル-は珍しくも風邪をひいたらしい。 数日前から咽喉に違和感を感じていた。 季節の変わりめは空気が変わり、咽喉を痛める事はそう珍しくはない。 だから大して気にも留めていなかった。 それなのに今朝もいつも通りの時間に目が覚め、朝餉の準備をしようと布団から起き上がろうとしたら、世界がぐるんと一回転した。 久しい感覚に襲われ、その時初めて僕は自分が風邪をひいていた事を自覚した。 正直そのまま意識を手放せたら楽だと思ったものの、三番隊副隊長という立場から地獄蝶に三席へと伝言や今日が期日の仕事を頼み、布団に戻った。 あれから少なくとも二時間は経過しているはずだが、不思議な事にいくら瞼を閉じても眠気は襲ってこず、いらぬ心配ばかりがよぎる。 隊長はきちんと執務をこなしてくれているだろうかとか、三席以下隊員に我が侭な事を言っていないだろうかとか、他所に遊びに行っていないだろうかとか。 情けない事に、全て自分の上司である市丸隊長の事ばかりだ。 「隊長、きちんと仕事してくれているかな」 もともと出来るお方なのだ。 三番隊の隊長になる前は、五番隊の藍染隊長の下で副隊長をしていたくらいだ。 仕事が出来ぬはずがない。 ただ、僕が下についてからと言うものの、なぜか時々、否よく手を抜くようになった。 信頼されていると言えば聞こえはいいが、今の状態はただ僕がいい様に使われているだけで、正直、隊員たちに示しがつかない。 こんな時にまで頭を悩まされる隊長の事を思うと、もともと風邪で頭痛を訴えていた頭が更に痛みを増した気がする。 本音を言えば、こういう時ぐらいは何も考えたくないし、ゆっくりしていたい。 だが僕の意思に反し、仕事の事や市丸隊長の事が頭を過ぎる。 それもこれも眠気が一向に襲ってこない所為だと、僕は結論付けた。 風邪なのだから、十分に睡眠をとって休んだ方がいいに決まっている。 しかし薬を服用していない所為なのか、それとも体が仕事をする時間である事を覚えているのか眠気は襲ってこない。腹が満たされれば違うのかもしれないが、それさえも体調の悪さから出来ずに、先日近所の人に貰ったみかんを二つ、三つ食したのみで終った。 それで腹が満たされたと言えば嘘になるが、水を飲むのもやっとなのに、食事をしっかり取る事は無理そうだからちょうどいい。 コチコチと規則正しい時計の音が響くだけの室内。 静かだと思いつつ、こんな風に時間がゆっくりと感じるのは久しぶりだと思う。 いつもは副隊長としての業務に終われ、時間をゆっくりと感じる事などできない。 だが元々僕はゆっくりと時間を楽しむ事が好きだ。 縁側で日の光を浴び、書物に目を通したり、月明かりを浴びながら杯を傾ける。 さすがに風邪で寝込んでいてはどちらも到底無理な話だが、今のこの時間は不謹慎ながらもとても貴重な時間だと思う。 隊長の事が気がかりだが、あの三席なら上手くあしらってくれているだろう。 そう思うと、少しだけ心が楽になった。 やっとうつらうつらとしだした頃、戸を叩く音が部屋に響いた。 もともと訪問客が多い家ではない。 両親が他界してからは、限られた人たちとの付き合いしかしていない。 その者たちでさえ僕と同じ死神で、今は各々が所属する隊の執務室いるはずだ。 仕事が終わった時間ならともかく、業務の合い間にわざわざここを訪れるとは考えにくい。だから僕は謎の訪問客を確かめず、居留守を決め込むことにした。 こちらが何の反応も示さなければ、相手も諦めて帰るだろうと思ったからだ。 「イヅルー、おるんやろ。オミマイに来たで」 本来、この場にいるはずのない人物の声が聞こえ、僕の意識は一気に覚醒した。 だるい体を壁に手をつくことで支え、玄関へと向かう。 鍵を外して戸を開ければ、目の前には我が上司市丸隊長が立っていた。 「何しているんですか、隊長。仕事はどうしたんです」 「あぁ、あれ。そんな物は綺麗に終わらせてきたよ」 いつものへらへらっとした顔で、市丸隊長はさらりと言う。 失礼な話だが、僕はその言葉を聞いてすぐさま嘘だと思った。 大方、三席以下隊員に押し付けてきたのだろう。 わざわざ一隊員である僕の見舞いの為に、仕事をこなすようには思えない。 大体このお見舞いとやらも、外に出かける口実な気がする。 だがここで隊長を追い返す事など出来るはずもなく、僕はここで次にとるべき最善の策をとる事にした。 「このような場所で立ち話もなんですから、どうぞ上がってください。なんのお構いも出来ませんが」 正直、玄関に来るのでさえこんなにも辛いのだから、市丸隊長を客人としておもてなしをすることは到底無理だろう。 それでもいつまでも玄関先で話をするわけにもいかず、隊長を家の中へと上げる。 とりあえず居間に通そうと思っていると、隊長から思わぬ言葉を言われた。 「イヅル、ちょっと台所を借りたいんやけどええ?」 「台所ですか?」 突然の隊長の申し出に、僕は首を傾げた。 人の家に来てそうそう、台所を貸してくれと言われたのはこれが初めてだ。 「イヅルは風邪で辛いやろうし、ボク、自分で茶を入れるわ。せやからイヅルは先に布団もどり」 あの市丸隊長が自分でお茶を入れるなど、これは天変地異の前触れだろうかというほど珍しい事だ。それと同時に僕を気遣う隊長の気持ちに関心してしまった。 そりゃ風邪とは言え病人の家に突然、何の連絡もなしに来たのだから、それ位の気遣いはあってもいい。 だが相手はあの市丸隊長で、僕はなんと言葉を返せばいいのかわからなかった。 「イヅル?大丈夫か」 「あっ、はい。ではお言葉に甘えさせて頂きます」 隊長にお茶の場所などを簡単に説明し、僕は再び布団へと戻った。 本当なら居間に居た方がいいと思うのだが、隊長が念を押して布団に戻れと言うので、素直にしたがった。 「イヅル、寝てしもうたん?」 自分を気遣うように声をかけられ、僕はゆっくりと目を開いた。 どうやらこの短い間に眠りかけていたようだ。 さっきまでは寝るまでに二時間以上もかかったというのに、自分でも驚くほど早く睡魔が訪れた。これは隊長がここに来た事で訪れたという事で、悩み事が一つ解決されたからなのだろうか。 実際は"どこか"という不特定の場所が僕の家に変わっただけなのだが、ふらふらと街中を歩き回られるよりはましだろう。だが今頃三番隊の詰所で仕事に追われている隊員たちを思うと、なんとも申し訳ない気もする。 「どうなされましたか、隊長」 「自分で褒めるのもなんやけど、上手く出来たと思うんよ」 にこっと得意げに笑う隊長に、僕は首を傾げた。 その様は小さな子どものようで、市丸隊長はこういう風にも笑えるのだと初めて知った。 「りんごのうさぎやで。どう?上手いもんやろ」 そういって差し出されたお皿には、耳をぴんと立てたうさぎのようなりんごが乗っていた。 幼い子どもが喜ぶ姿のりんご。 それは亡き母が自分の為に作ってくれたものと重なり、懐かしさが押し寄せた。 だが僕はそれを隠すように、話をそらす。 「このりんごはどうなされたのですか?我が家にりんごは無かったと思いますが」 「風邪にはりんごやろ。お土産に買うてきたんよ」 はて、隊長はどこにりんごを隠し持っていたのだろうかと思ったが、熱に浮かされた頭では上手く思い出せず、無理に追求しない事にする。 隊長は今だ僕に差し出すようにりんごのお皿を手にしており、爪楊枝が2本刺してある事からも、これは一つ僕に食べろという事なのだろう。 僕は一言"いただきます"と言い、爪楊枝が刺さっているりんごに手を伸ばす。 一口りんごを頬張れば、しゃりしゃりと小気味いい音がする。 まともな食事をしていなかったからか、隊長が向いたうさりんごはいつも食べているりんごよりも美味しく感じた。 もう一つ食べたくて手を伸ばすと、それを察してくれた隊長がお皿を差し出してくれた。"ありがとうございます"とお礼を言うと、いきなり隊長は立ち上がり、部屋を出て行った。 僕は訳が分からずいると、今度は湯のみを持って隊長が現れた。 お茶でも入れてきたのだろうかと思ったが、盆の上にのっている湯のみは1つで隊長の分が無い事に気づいた。 その事を不思議に思っていると、隊長は僕の事を見て笑った。 「イヅル、葛湯って大丈夫?」 「葛湯ですか。はい、好きですが」 「ここの葛湯な、優しい味がして美味しいんよ」 そう言って差し出された湯のみには、ほんのり若草色の葛湯が入っていた。 抹茶葛湯なのだろうと思い口をつける。 それは甘くて、でも甘すぎない上品な甘さで、心が休まりほっとする、隊長が言うように優しい味だった。 違和感の残る咽喉を労わるようにすっと体に浸透する葛湯を飲んでいると、目の前がかすかにぼやけた。どうしたんだろうと目元に触れると、ぼろぼろと涙が溢れていた。 僕は訳が分からず、涙にぬれた手を眺めていたが、僕以上に、いつもはあまり表情を崩さない隊長の方が驚いているようだった。 「どうしたの、イヅル。なんで泣いとるの。抹茶葛湯、嫌いやった?」 「いえっ、その…。見ないで下さい」 まるでぐずりだした子供をなだめるかのように、隊長は声をかけてくれたが、僕は恥ずかしくて布団に顔を埋めた。 恥ずかしい、あまりにも恥ずかしすぎる。 いくら風邪で寂しさが増していたとは言え、隊長の前で泣くなんて。 しかもただりんごを剥いて、葛湯を作ってきてくれただけじゃないか。 そりゃ、りんごはうさぎになっていたけど、だからって…。 自分でも理解し難い現状に頭を悩ませていると、隊長はぽんぽんと僕の頭をなで始めた。それは昔、母がしてくれたように優しく温かいものだった。 「風邪ひいて、心も弱くなったんやね。ええんよ、それで。好きなだけ泣き」 もともと溢れ出して止まらなかった涙は、隊長のその一言で更に留まる事など知らないかのように流れ続けた。 そして小さな子供ではないが、僕は泣きつかれてそんまま眠ってしまった。 次に目が覚めた時、僕の家に居たのは市丸隊長ではなく阿散井くんと雛森くんの二人で、隊長が居た事など知らないようだった。 僕は狐にだまされたのか、夢でも見ていたのかと思ってしまった。 だが次の日、三番隊の執務室に行く と市丸隊長の仕事は全て終わっており、僕の机の上には小さな葛湯の包みが乗っていた。 |
END |